【08】Vorpal Bunny


 一男、二男、そして妹の一子かずこの三兄妹に血の繋がりはない。

 そして、彼らがママと慕う阿武隈礼子とは、法的にも遺伝的にも本当の親子ではなかった。

 三人は一九八二年以降、順番に牛首村の阿武隈邸に連れてこられた。世間では失踪したと認識されている。

 彼らは全員、実の親から手酷い虐待を受けていた者ばかりであった。

 どんな理由であったのかは本人が故人となり、口を閉ざしてしまったために判然としないが、彼女は離婚した直後くらいから準備を進め、こうした子を誘拐して手元に置くようになった。

 阿武隈は彼らに惜しみない愛情を注ぎ、本当の子供以上に可愛がった。

 三人も阿武隈を本物の両親以上に慕い、その愛を疑う事なく育った。




 阿武隈二男は、幼い頃から阿武隈礼子に“外は怖い世界だから”という理由で地上へ出る事を禁じられ、ずっと阿武隈邸の地下で暮らしていた。

 今でこそ、電気も水道もガスも止まり、湿った暗闇だけしかない場所となってしまったが、当時は楽園のようであった。

 空調が効いており、温度は二十五度と一定にたもたれ、常に清潔だった。外に出る自由以外のすべてがそこにあった。

 実際、両親から虐待を受けていた彼にとって、ここに来る前に過ごしていた“外の世界”は恐ろしい場所であった。何よりも阿武隈から“外に出ると怖い大人に見つかって連れ戻されるかもしれない”と言い聞かされていた。

 そして、この地下空間にいれば、好きなときに好きなものを食べさせてもらえたし、お風呂も入れたし、何の気がかりもなく眠る事ができた。

 おねしょをしても、物を壊しても、何かを失敗しても、怒鳴られる事はなかったし“仕事”をちゃんとこなせば、阿武隈が優しく頭を撫でてくれた。たくさん、遊んでもくれた。

 特に好きだったのは阿武隈の作った暗号を誰が最も早く解けるか競うゲームだった。

 いつも頭のよい一男がいちばん最初に暗号を解いてご褒美をもらっていたが、たまに二男が勝つ事もあった。

 そんなときは、とても嬉しかったし、阿武隈も褒めてくれたので満たされた気分になった。

 もちろん、気性の荒い一男と喧嘩になる事もあったが、そんなときも阿武隈は優しくいさめてくれた。

 そういった訳で、二男には外に出る必要を一切感じていなかった。

 しかし、その意識が変わったのは二〇〇〇年の事。

 それは長兄の一男が二十歳になったばかりの頃だった。

 阿武隈は彼を“もう大人だから”と言って、外へと連れ出したのだ。

 一男は社会に関する事や一般常識などを学び、偽の戸籍を与えられた。そして、阿武隈の呪具製作を手伝うようになる。

 この世の何よりも敬愛する“ママ”の力になれる幸せ。その事に二男は強い憧れを抱いた。

 そして、一男のように自分も外に出て“ママ”の手助けをしたいと阿武隈に直談判した。

 すると、彼女はこんな言葉を二男に返す。


 『それは、あなたが大人になってからね』


 それ以降、二男は二十歳になれば、自分も一男のように外に出て“ママ”の役に立つ事ができるのだと信じ、その日が来るのを待ち続けた。

 そして、二〇〇四年十月二十三日。奇しくも二男の二十歳の誕生日の前日であった。

 この日、中越沖を震源とする地震が発生。それにより家の裏山が崩れ、阿武隈礼子がその土砂の下敷きとなった。

 何とか救出する事はできたが、阿武隈は頭部に致命的な損傷を負い、その意識が戻る事はついになかった。




 二〇二〇年九月十九日。十時三十分過ぎ。

 阿武隈二男は兄の一男に殴られた鼻先をこすり、蔵へと続く梯子を登り始めた。

「……畜生」

 元々、気性の荒かった一男が暴力的になり始めたのは、阿武隈礼子が死んでからまもなくの事だった。

 ちょっとした事で、すぐに大声を張りあげて暴力を振るい、上から目線で頭ごなしに命令してくるようになった。

 正直に言えば気にくわない。

 何度も逆らってやろうと思ったが、そうしなかったのは、一男がいないと彼や一子は生きていけないからだった。

 阿武隈礼子亡き今、一般常識をある程度知り、偽の戸籍によって社会的な立場を得ている一男がいなければ何もできない。

 一男は、それを良い事に二男や一子を支配していた。かつての自分たちの実の親のように……。

「ふざけやがって……」

 悪態を吐きながら蔵の床の蓋を跳ねあげた。いっしょに、蓋の上を覆っていたビニールシートが捲れあがる。

 二男は地下への入り口から這い出ると、近くの壁に立て掛けてあった片刃の斧を手に取る。

 これから、二男は気晴らしに近くの山林を徘徊するつもりだった。

 そこで見つけた野生動物をなぶり殺して鬱憤を晴らす。彼の密かな楽しみだった。

 そして、彼は一度だけ野生動物ではなく、村を訪れた廃墟マニアを手に掛けた事もあった。

 基本的に蔵の地下への侵入者以外は無闇に襲わないように一男から言われていたが、そんな事は関係なかった。

 ようはバレなければいいのだ。

 因みに、その廃墟マニアは散々なぶったあと、公民館の裏手にある便槽へと落としたきりだ。一男には知られていない。

 ともあれ、二男は蔵の外に出ると、下の川沿いの道路へ降る石段へと向かおうとした。

 すると、そこで銀色の車が橋を渡ってこちらへやって来るのが見えた。

 二男は身を屈めて門柱の影から様子を窺う。

 車の中から現れたのは、二人の少女だった。

「女の子だあ……可愛いなあ……」

 二男はだらしなく相好を崩す。

 少女は石段の方を見あげて何かを話したあと、車のトランクからリュックを取り出した。そのあと、リュックの中身を改めてから石段を登り始めた。

 二男は身を屈めたまま素早く蔵の中へと戻る。

 聞き耳を立てていると、少女たちの声がどんどんと近づいてくる。

 これはしめたものだ。

 地下にやってきてくれれば、一男に文句を言われる事なく、あの二人の少女をなぶり殺せる。

「ふひへへ……」

 二男は再び蓋を開けて地下へと戻った。因みに普段は蓋にビニールシートが被るようにしておくのが取り決めであったが、そうはしなかった。言うに及ばず、地下への入り口を発見し易くするためだ。

 そうして二男は斧を持ったまま、梯子を下った先の右側に並んでいた、錆びついたドラム缶の影に身を潜めた。

 そして、彼は想像する。

 斧を振りあげて襲い掛かったとき、あの少女たちはどんな顔をするのだろうか。その恐怖に歪んだ表情を想像するだけで、二男は興奮して身体が熱くなるのを感じた。

 妄想をふくらませながら息を潜めていると、じきに蔵の床の蓋が開く音が響き渡った。

 ついに獲物がやってきた……二男は期待に胸を高鳴らせながら、そのときを待った。

 耳を澄まし、梯子を下降する足音を聞き分ける。そして、少女たちが地下へと降り立った直後だった。

 二男は満面の笑みを浮かべながら、ドラム缶の影から飛び出した。

 狂喜の笑みを浮かべ、斧を振りあげながら大きく踏み込む。

 しかし……。

「えっ」

 彼は何が起こったのか解らずに驚愕する。

 斧を振りおろす寸前で、その小さな少女から伸びた二本の手が、斧の柄をしっかりと掴んだからだ。

 力を入れて無理やり押し切ろうとしてもびくともせず、また離れて間合いを取り直そうとしたが、これもまったく動かない。

「……な、何だ……?」

 その少女は小柄だった。

 自分よりもずっと小さく、周囲の山林でときおり見かける事がある野兎のように非力に見えた。

 しかし、彼は知らなかった。

 その少女が研ぎ澄まされた恐ろしい牙を隠し持っていた事を。

 そして、その背後で黒髪の少女が、まるで本物の悪魔のように笑っていた。

「お前たち……いったい……」

 恐怖のあまり全身の産毛が逆立つ。

 次の瞬間だった。

 二男は右の脇腹に鉄の杭を差し込まれたかのような衝撃と激痛を感じた。


 “三日月蹴り”


 前蹴りと中段蹴りの中間にあたる軌道で、脇腹を突き刺すように蹴る。

 少女の履いたトレッキングシューズの爪先が、まるで小刀の切っ先のように深々と二男の右脇腹にめり込んでいた。

「うおおおお……」

 たまらず斧から手を放して両膝を折った。腹を抑えながら青ざめた顔で呻きをあげる。

 少女は奪い取った斧を投げ捨て、二男の背後に回り込んでいた。そして、その毒蛇のような右腕を彼の喉元に回し、左手でしっかりとロックする。

 二男はすぐに少女の右腕を掴んで足掻こうとするも、時すでに遅し。

 彼の意識はそこで途切れたのだった。

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