【05】暗室


 国枝美春は目を覚ましたつもりだった。

 しかし、視界は闇に包まれていた。真夜中に起きてしまったのかもしれない。そう思って部屋の電気をつけようと、蛍光灯からぶら下がった紐を手探りで掴もうとした。 

 そこで、ようやく違和感に気がついた。

「……ここ、どこ?」

 硬い床。

 湿った腐敗臭。

 どこからともなく微かに聞こえてくる水滴の音。

 それらは、明らかに自らの日常には存在しないものばかりだった。

 上半身を起こして叫び散らす。

「……ねえ、何なの!? これ、何!?」

 返事はない。

 そこで、やたらと頭が重たい事に気がつく。まるで、二日酔いのあとのようだった。

「……私、どうして、こんな……」

 暗闇を見つめながら記憶を探る――。



 九月十八日の夕方過ぎだった。

 国枝美春は、伯父だという阿武隈一男に会うために、電車で隣県の県庁所在地へと向かう。駅の南口広場が彼との待ち合わせ場所だった。そこから彼の車に乗って、祖母の実家へと向かう予定となっていた。

 相続に関する話し合いがどの程度掛かるのかは未定であるが、連休中は祖母の実家でお世話になるつもりでいた。

 少しだけ早く到着した国枝は改札を潜り抜け、ホームの上に架かった連絡路を渡り、階段を降りて南口へと出た。

 南口は、バスセンターや飲食店が軒を連ねる駅正面とは違い、人気ひとけはそれほどない。

 見渡してみるも、阿武隈らしき人物は見当たらなかった。

 国枝はスマホをバッグから取り出して、手紙に記されていた阿武隈の番号へと電話をかけた。

 しばらく呼び出し音が鳴り、スマホに耳を当てる彼女の横をスーツ姿の女とモノトーンのワンピースを着た女が通り過ぎた直後だった。

『はい』

 電話が繋がった。

「あの……」

 と、国枝が声を発しようとしたところで、阿武隈が先に声をあげた。

「貴女が麗菜さんの娘さん?」

 その声は受話口から聞こえたものではなかった。

 国枝は驚いてスマホを右耳からおろし、声の聞こえた方を見る。すると、スマホを耳に当てた男が人懐っこい笑顔を浮かべながら近づいてくる。

 ベージュのカジュアルなスーツ。

 ライトブラウンのさらさらした髪の毛。

 背が低く色白で、まるで少年のような童顔だった。

 国枝の母は一九七二年生まれ。彼がその兄だというなら、五十歳前後であるはずだが、とてもそうは見えなかった。

 その男は国枝の側までくると、にやりと口角をあげた。

「こんにちは。始めまして。阿武隈一男です」

「あ、はい。国枝美春です……」

 近づいて見てみると、やはり、肌の艶や髪の毛の細さなど、年相応に思える部分が見受けられた。しかし、それでも若い。

 国枝はずっと温室で育てられた観賞用の植物をイメージした。

「……どうしました?」

 小首を傾げる一男。

 そこで、国枝は彼に不躾ぶしつけな視線を向けていた事を自覚し、慌てて謝罪する。

「ご、ごめんなさい……」

「あはは。若いお嬢さんに見つめられると、なんか照れてしまいますね」

 などと、気安い調子で言うと、朗らかな笑みを浮かべた。この時点で、彼の人当たりのよさに国枝の緊張はずいぶん解けていた。

「ま、取り敢えず、このまま立ち話も何なので、夕御飯は……」

「あ、お弁当を食べました」

「そうですか。ならば、詳しい話は道すがら……」

 と、言って、駐車場の方へ歩き始める。

「はい。お世話になります」

 国枝も一男のあとに続く。

「あ、ちょっと、コンビニに寄っていいですか? 喉が渇いて。飲み物が欲しいんです」

「はい。構いませんよ」

 国枝は一男の申し出を了承する。

 そうして、彼の運転する白いボンネットバンに乗って駅を離れたあと、早々に近くのコンビニへと立ち寄る事となる。

 国枝は一男が買い物している間、助手席でスマホを弄っていた。すると、五分ほどで、一男が戻ってくる。手にはアイス珈琲のRサイズカップを二つ持っていた。

 一男は車中に戻るなり、そのうちの一つを国枝に差し出してきた。

「どうぞ」

「あ……いや、その」

「遠慮なさらず」

「すいません」

 スマホを膝の上に置いて、そのアイス珈琲を受け取った。何気なくストローを咥えて珈琲をすする。

 少しだけ苦味が強いような気がした。そして、エアコンの送風口の上に取りつけられていたドリンクホルダーにカップを置く。

「……それじゃあ、行きましょうか」

 そう言って、一男が車のエンジンを掛けた。

 そこから先の記憶がない。




「あああ……」

 ようやく、国枝はあの阿武隈一男を名乗る男に、一服盛られた可能性に思い至る。

 手探りで身なりを確かめるが、着衣に乱れはみられない。暴行を受けた形跡は感じられない。

 再び視線をあげて、辺りを見渡し、力の限り叫んだ。

「誰か! ちょっと! 誰か!」

 その残響が暗闇の向こうに消えたあとだった。

 複数人の足音が聞こえてくる。

 そして、乳白色の懐中電灯の明かりが射し込み、国枝は眩しさに顔をしかめた。

 手をかざしながら光源の方を見ると、手前に鉄格子と大きな南京錠が浮かびあがっていた。

 そこで、国枝は自分が牢屋のような場所に閉じ込められている事をようやく理解する。

 そして、その向こうから三人の人影が近づいてくる。

 先頭に立ち、懐中電灯を持っているのは、あの阿武隈一男と名乗った男だった。

 その左横には、彼より少しだけ背の高い男がいた。

 禿頭で顔も身体も丸々としていた。汚れた革のエプロンを首から下げている。

 そして、二人の後ろにいるのは背の高い長髪の人物であった。

 身長は丸い男よりも更に頭ひとつ抜けている。肩幅も広く、筋骨隆々としていた。始めは男かと思ったが、髪の毛を両サイドで縛っており、フランス人形のようなフリルつきのワンピースを着ていた。

 化粧もしていて、顔立ちには少しだけ女性らしさがあった。

 お盆を携えており、そこには硝子のコップと平たく丸い皿が乗せてあった。

 三人は鉄格子の前までやってくると、ぴたりと足を止めた。

 大きな女は無表情であったが、一男と丸い男は嫌らしい笑みを浮かべながら国枝の事を見つめている。

 国枝は膝立ちになり鉄格子の前まで移動すると、一男に向かって声を張りあげた。

「ねえ。これは、いったい何なの!? ねえ! どうしてこんな……」

「五月蝿えんだよ! ボケがッ!!」

 一瞬、誰がその言葉を発したのか解らず、国枝は面食らった。

 それは、阿武隈一男だった。

「……騒がしいのは嫌いだから、ちょっと、黙ってろよ」

 苛立ちが強くにじみ出た暴力的な表情だった。

 初対面の印象とは真逆。そして、国枝は、それが彼の本性なのだと悟る。

 一男は懐中電灯を持っていない方の手をひらひらと動かすと、国枝に向かって言う。

「……下がれ」

「は……」

 国枝が戸惑っていると……。

「さがれや!!」

 一男は大声で叫び、鉄格子を蹴りつけた。けたたましい音が鳴り響き、国枝は仰け反る。

 そのまま、少しだけ後ろにさがった。

 すると、大きな女が前に出て、手に持ったお盆を鉄格子の下にあった小さな窓から差し入れてきた。

 すると、一男が再び声をあげる。

「……これから、お前には、儀式までこの檻の中で暮らしてもらう。それは飯だ。食え」

 そう言って、鉄格子の内側に入れられたお盆を顎で指し示す。

 お盆の上の硝子のコップには透明な液体が、そして、皿の上には、ほんの少量の生米が乗せられていた。

 

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