【02】地獄への招待状


 湿気が充満した暗闇に無数の蝿が飛び回っている。

 不意に扉の開く音が聞こえ、ぽつりと明かりが灯った。その直後、忌々しげな舌打ちが鳴る。

畜生ちくしょう……蛆がたかってる……失敗だ……また、上手くいかなかった」

 それは、甲高い男の声だった。そのあと、別な人物が声をあげる。

「やっぱぁ、男の肉じゃあ、駄目なんだよぉ……だってぇ、ママは女だしぃ……」

 間延びした幼い口調であったが、それは明らかに成人女性の声だ。

 そして、鼻を鳴らす音のあとで、三人目の声が聞こえた。

「前に女でやったときも、駄目だったじゃねえか」

 その言葉に反応したのは、二人目の幼い口調の女であった。

「じゃあ、どうすればぁ、いいのぉ……」

「知るか! 少し黙ってろっ」

 頭を掻きむしる音。

 そして、しばしの沈黙……。

 腐敗臭に色めきたつ蝿の羽音だけが鳴り続けたあと、三人目の男が声をあげた。

「……そうか」

「あにぃ、何か解ったのぉ?」

「あにぃ!?」

 その“あにぃ”と呼ばれた人物は、興奮を隠し切れない様子で自らの思いつきを口走る。

「……血が繋がってないと駄目なんだよ! ママと血の繋がった身体じゃないと、馴染まないんだ!」

「そっかぁ……あにぃはやっぱりぃ、天才だぁ……」

「でも、ママと血の繋がった身体なんて、いったい、どこに……」

 その二人の言葉に“あにぃ”は答える。

「……昔、一度だけ、ママに聞いた事がある」

「ママに?」

「あにぃだけぇ、ずるいよぉ……」

 女の声を無視して“あにぃ”は言った。


「……俺たちには、歳の離れた妹がいるらしい」




 国枝美春くにえだみはるが、自らの店『Meat The Parents』をオープンさせたのは二〇一九年の十月だった。

 昼間は本格的なバーガーカフェで、夜は雰囲気のあるダイニングバー。ダーツやビリヤードも楽しめる。

 立地は東京郊外の長閑な住宅街の外れで、内装はレトロなアメリカン。お洒落な隠れ家的な雰囲気に拘った。

 親しい仲間たちと協力して数年前から準備に奔走し、資金をかき集め、ようやく夢を実現した。

 SNSを上手く活用したマーケティングが功を奏し、オープン当初から客足は上々だった。

 しかし、二〇一九年の年末から二〇二〇年の年始にかけて、全世界を席巻し始めたコロナ禍の影響により、店の経営にかげりが見え始める。

 春先の緊急事態宣言が明けたあとも、せっかく定着し掛けた客足は完全に戻る事はなかった。

 もちろん、給付金など雀の涙に等しいもので、何の足しにもならなかった。

 それでもどうにか必死のやりくりで店を続けたが、八月辺りでいよいよ限界を迎える。

 共同経営者からも「もう、この辺りが潮時……」などと、弱気な言葉が聞かれるようになった。

 そして、とうとう九月に入り、店を閉める事になる。

 国枝としては是が非でも営業を続けたかったが、これ以上、仲間たちを付き合わせる訳にはいかず、苦渋の決断であった。

 唐突に訪れた理不尽な災禍により、子供の頃から憧れていた飲食店経営という夢を諦めざるを得なくなった国枝は、どん底に叩き落とされた。

 更に収入を得る当てを失うという現実的な問題もあった。店への初期投資費用も、まだ回収しきれていない。

 けっきょく、国枝はそれらの現状を打開できないまま、これまで住んでいた首都圏内のアパートを引き払い、山形県の片田舎にある実家へと舞い戻る事となった。

 そんな折りだった。

 阿武隈一男あぶくまかずおという人物から連絡があったのは……。



 国枝がそれを発見したのは実家に舞い戻り、数日経った頃だった。昭和にタイムリープしたかのような古びた和室で、郵便受けに貯まった封書や葉書を座卓の上に広げて整理しているときだった。

 明らかに明細や公的機関の通知とは異なる茶色い封筒が目に止まる。

 宛名は国枝麗菜くにえだれいな

 三年前に咽頭癌いんとうがんを拗らせて他界した母親の名前だった。

 因みに国枝美春の父親は幼い頃に母と離婚して家を出ており、現在はあまり親交がない。

 さておき、送り主の名前は“阿武隈一男”

 記憶にない名前であった。

 怪訝けげんに思って封筒を開けると、中にはきっちりと折り畳まれた便箋びんせんが入っていた。

 内容を確認すると、どうやら彼は母の麗菜れいなの兄にあたる人物のようだ。つまり、国枝からすると伯父にあたる。

 手紙の内容は国枝の母方の祖母であるらしい阿武隈礼子に関する事だった。

 どうやら、くだんの礼子なる人物が病没し、その遺産相続に関する話し合いを、母の麗菜を交えて行いたいのだという。

 その他には、ずっと連絡をしなかった事に対する謝罪と、折り返しの連絡が欲しい旨がしたためられており、最後に080から始まる電話番号が記されていた。

 手紙をすべて読み終えたあと、国枝美春は首を傾げた。色々と腑に落ちなかったからだ。

 まず、この一男なる人物は、どうやら麗菜の死を知らないらしい。

 思い起こしてみれば、母の葬儀のときの参列者は友人や知人、職場の元同僚と、元夫であり国枝美春の実父である吉城弘之よしきひろゆきだけであった。

 そして、国枝が幼い頃、父方の実家に行った事はあったが、母方の実家へ行ったという記憶はまったくない事に気がつく。

 手紙には、ずっと連絡を取らなかった事への謝罪がなされているが、その原因についての言及はいっさいない。

 もしも、この送り主が本当に母方の伯父であったとしたら、その関係性は訃報が届かないほどに断裂しているという事になる。当然ながら、そこに不穏なものを感じざるを得ない国枝であった。

 正直に言ってしまえば祖母の遺産には興味があった。具体的な価値はどれくらいになるのか想像もつかないが、それでも今は金が喉から手が出るほど欲しかった。

 しかし、だからといって、面倒事に巻き込まれるのはごめんである。

 だいたい、この阿武隈一男なる人物が、本当に母方の伯父である証拠もない。

 国枝美春は悩んだ末に、父親の吉城に電話を掛ける事にした。

 彼なら何かを知っているかもしれないと……。 

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