【File48】牛首村

【00】負の遺産


 怒号と物音が止んだ。

 膝を抱えていた少年は恐る恐る顔をあげると、そのふすまへと視線を向けた。

 静寂。

 少年は襖の向こうで起こった最悪の事態を想像して、くしゃりと顔を歪めた。

 早くお母さんを助けなければ。警察に連絡しなければ。

 そう思っても、身体が恐怖で動かない。あの恐ろしい男の顔や声が目蓋まぶたの裏に焼きついて離れない。

 物音を聞きつけて、誰かがやって来てくれる可能性は皆無である。そんな事は、考えるまでもなく解っていた。

 なぜなら、これは、いつもの事だからだ。

 昔、お母さんが読み聞かせてくれた羊飼いの狼少年の話。

 何となく、それを思い出した。

 繰り返すうちに、誰もかれもがそれを“いつもの事”だと思い始めて、何の反応も示さなくなる。

 まさに、少年が今直面している状況がそうだった。

「……うう。助けてぇ」

 それは何者に対しての懇願こんがんであったのか。神か悪魔か……。

 少年自身にもよく解らなかった。

 ただ、自らの口から出たその言葉があまりにも滑稽で、狂気の笑みが口元に浮かぶ。

 その直後だった。

 おもむろに襖が開かれ、まばゆい光が少年に降り注ぐ。

 再び少年は顔をあげた。

 

 

 

 錆びついた配管からしたたる水滴すいてきが、床の水溜まりに落ちた。

 水面に波紋が広がる。それを踏み潰したのは、いかつい革のブーツであった。

 周囲の暗闇に懐中電灯の丸い光が二つ浮かびあがる。

「……すげえな。これ全部、本物かよ……」

 そう言ったのは、ミリタリーファッションの男だった。

 名を野分傑のわきすぐるという。

 呪物を専門に扱う闇のブローカーである。

 その彼の背後で、筋骨隆々としたスキンヘッドの男が声をあげた。

「ああ。阿武隈礼子……その道じゃ、ちょっとは知られた存在だった」

 彼は伊藤晴明いとうせいめい。元プロレスラーという異色の経歴を持つ呪術師である。

「阿武隈はあっち系・・・・の活動家だった。元々は、この村の出身だったが全共闘時代は、向こうでかなりド派手にやらかしていたらしい」

 その話に耳を傾けながら野分は棚の上に置かれていた木箱を手に取りほこりを払う。

 そして、蓋を開けた。中身を懐中電灯で照らす。すると、そこに納められていたものは……。

「これ、本物か!?」

 それは、黒ずんだ左手首の木乃伊ミイラであった。

 “栄光の手”

 処刑された罪人の手で作られた魔法の燭台……。

「……本物だろうな。阿武隈は……一九六九年頃、唐突に左翼活動から足を洗い帰郷した。それからは、この両親から受け継いだ家で隠遁いんとんしながら、呪具制作にせいを出していたそうだ。因みに阿武隈が帰郷する前後に、向こうで同じ党派の関わりのあった男が三人ほど不審な死を遂げている。間違いなく、阿武隈の仕業だろうな」

 そう言って、伊藤はその場でくるりと一回転する。

 懐中電灯の光の中に、部屋の四方の壁を覆い尽くしたスチールラックと、そこに並んだたくさんの呪具が浮かびあがった。

「……その稀代の呪術クリエイター、阿武隈礼子の作品が、ここに納められているすべてだ」

「すげえ……これはとんでもねえぞ」

 野分が興奮に瞳を輝かせる。

 しかし、伊藤はあくまでも冷静だった。淡々とした声音で話の続きを切り出す。

「ああ。ただ、妙な噂もある」

「妙な噂だと?」

 野分が神妙な顔つきになる。伊藤は鼻を慣らし、ズボンのポケットから取り出したラッキーストライクを唇に咥えた。

「……阿武隈は二〇〇五年頃に死んでいるという事になっているらしいが、実はまだ生きていて、この廃屋に潜んでいるんだとか」

 短い金属音に続き、鈍い擦過音さっかおんが聞こえ、暗闇にオイルライターの炎が揺らめいた。

「……そして、俺たちみてぇな、に釣られてやって来た連中を取っ捕まえて、呪具の材料にしているらしい。一説によれば、あのhogの正体は阿武隈だって話だ」

 伊藤は含み笑いを漏らしたが、野分は忌々しげに舌を打つ。

「hogの……クソが。そんな話は聞いてねーぞ!」

 普通ならば“死んだと思われていた人間が生きており、かつての住居の廃屋にて、訪れる人間を待ち伏せ、手にかけている”などというような噂話は、悪い冗談であると一蹴される事だろう。

 しかし、この業界に長く身を置く野分は、その悪い冗談が現実の危険になりうる事を知っていた。

 そんな、憤慨ふんがいする彼をよそに伊藤は肩をすくめてから悪戯っぽい笑みを浮かべた。

「……まあ、そうイキリ立つなって。どうせ、眉唾だ。そもそも、わざわざ、死んだふりをする理由がわからねえ。素材が欲しいなら、罠を張るよりで買った方が安全だしな。金はあっただ……」

 不意に伊藤の声が途切れた。

 火のついた煙草を水に浸したときの音と、何か硬いものが床に転がる音がした。

 不吉な予兆を感じ、野分は伊藤のいた方に左手の懐中電灯を向けた。

 誰もいない。

 明かりがついたままの懐中電灯が湿った床に転がっているだけだ。

「……おい」

 返事はない。

 代わりに鼻先を微かな煙草の残り香が掠めた。

 野分は舌を打つ。

「クソッ……」

 悪い冗談が本当になった。

 だから、言わんこっちゃない……野分は数十秒前の伊藤に向かって、そう心の中で悪態を吐き、部屋の出口へと足早に向かう。

 そして、開かれた扉口から、右足を踏み出した瞬間だった。

 扉口の右側から振りおろされた斧が、野分の爪先をブーツごと両断した。

 絶叫が暗闇を震わせる。

「ああああ……あ、あっ……」

 かつて爪先のあった場所から吹き出る血潮。

 激痛と共に遠退きかける意識。

 野分は右足をあげながら尻餅を突いた。同時に彼の左手から落ちた懐中電灯が転がる。

 すると、扉口の右側に隠れていた何者かが姿を現した。丸みを帯びたシルエットだった。

 再び野分は悲鳴をあげる。

「あ……あ……あああ……」

 一方で扉口に立った何者かは動こうとしない。右手に鮮血したたる斧を携えたまま、慌てふためく野分をじっと見つめている。

 殺意ですらない害意。

 地面で蠢く四肢をもいだ虫が、朽ち逝くさまをじっと眺めるときの眼差し。

 人を人とも思っていない。

 怖気と絶望。

 死の予感に鞭を打たれた野分は、尻を床につけたまま後退りをした。

 すると、その背中に何かが当たる。

「ひっ……」

 掠れた悲鳴をあげて、そのまま野分は顎をあげ、上を向いた。

 すると、背後にいたもう一人の誰かが、自分を見おろしている事に気がついた。

 プロレスラーだった伊藤よりも遥かに体格がいい。

 その誰かが獣のように笑った。

 野分は再び悲鳴をあげた。

 それが彼の断末魔となった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る