【12】九尾天全の発狂


 二〇二〇年九月十四日の昼過ぎ。

 都内某所の狭い路地に軒を構える占いショップ『Hexenladenヘクセンラーデン』の前にタクシーが停車した。

 その開かれた後部座席から姿を現したのは、この店の店主であり最強霊能者でもある九尾天全であった。

 恐ろしく疲れた顔をしており、今にも路上に崩れ落ちてしまいそうだった。

 彼女は去り行くタクシーを丸まった背中で見送り、ヴィトンの旅行鞄の中からキーストッカーを取り出した。

 そして、シャッターに閉ざされた軒先の左側にある、二階の居住スペースへ続く階段入り口の扉に掛かった鍵を開けた。だらだらと階段を登る。

 九尾はここのところ一週間ほど、逗子で発見された両面宿儺リョウメンスクナの再封印作業に従事していた。

 桜井や茅野たちへの反応が鈍かった原因が、これであった。

 モノは大災害を起こしかねない超危険物クラスの呪物である。何とか再封印作業は上手くいったが、彼女の心労たるや想像を絶するものがあった。

 しかし、そんな疲れきった心にむちを打つ事態が待ち受けていようとは、さしもの九尾天全も、このときは予想だにしていなかった。

 ともあれ、二階の居住スペースに着くと靴を脱ぎ散らかし、リビングへとゾンビのような足取りで向かい、ソファーへと腰を落として上半身をぱたりと倒した。

「……明日から本気出す」

 まだやる事は山積さんせきしていた。特に懸念されるのは、失われた両面宿儺の右腕の行方である。あれほどの呪物ともなれば、右腕だけでも相当な災禍を引き起こしかねない。すぐにでも行方を追わなければならなかったが、気力がまったく湧かない。

 もうこのまま眠って、ひと風呂浴びて、酒でもかっ食らわなければやってられない。九尾のメンタルは瀕死の状態である。

 それがいけなかったのかもしれない。

 本当に何気なく、四日ぐらい前から触っていなかったスマホを鞄から取り出し、ロックを解いて各種通知をチェックし始めてしまった。

 そして、九尾は気がついてしまう。

 桜井梨沙からメッセージがあった事に……。

 彼女の卓越した第六感によるものか、それとも、単なる経験則からなのか、そのどちらかは判然としないが、嫌な予感が猛烈に込みあげて顔をしかめる九尾天全であった。

 兎も角、いかに疲労困憊ひろうこんぱいであろうとも、これを放置して眠りにつけるほど、彼女の精神は頑強ではなかった。

 桜井のメッセージを確認する。

 そして、そこに添付されていた何枚かの画像を目にした直後だった。

 そのあまりのヤバさに九尾はスマホを投げ出し、頭をかきむしりながら奇声をあげた。


「キイィエエェ……」


 九尾は何もかもを諦めて溜め息を一つ吐き出し、彼女たちと連絡を取る事にした。




 テーブルの中央に置かれた茅野のスマホから九尾天全の声が響き渡る。

『……で、これは何なの!?』

「なぜ、若干キレ気味なのかは聞かないでおくけれど……」

 と、茅野が言うと、九尾の嘆きの声が響き渡る。

『ねえ、それは聞いてきてよ!!』

 もっとも、聞かれたところで、両面宿儺の事は口外できないので何一つ話す事ができなかったりするのだが、それはさておき、桜井と茅野の二人に思い切り振り回されているらしい九尾の境遇に同情し、西木は苦笑を漏らした。そして、発端が自分の撮った写真である事について心の中で謝罪する。

 すると、桜井がのんきな欠伸あくびを一つかまして、九尾に質問を発した。

「……で、センセ。これってやっぱり、かなりやば

めな感じ?」

『ヤバいなんてもんじゃないわ……まったく、毎度、毎度、どこからこんなものを……このノートと落書き自体が怪異みたいなものよ。半分この世のものじゃないわ』

 その言葉を聞いた瞬間、桜井と茅野は嬉しそうにガッツポーズをした。その様子を呆れ気味に静観する西木。

 そして、茅野が言葉を発した。

「この落書きの写真は、私たちの友だちが撮ってきたものなのだけれど……」

『友だち!』

 と、九尾は絶望混じりの声をあげた。

 そこには“あんたら二人だけでもアレなのに、そんな写真を撮ってくる友だちまでいるのか”という意味合いがあった。

 そのニュアンスを察知した茅野は、極めて優しい声音で言い聞かせる。

「大丈夫。その子は、私たちと違って頭がまともだから」

「自分で言わないでよ」

 と、小声で突っ込む西木であった。

 すると、多少は落ち着いたらしい九尾が咳払いを一つ挟んで、本題を促す。

『取り敢えず、この送られてきた画像に関して、今解っている事を話してちょうだい』

 茅野はこれまでで解っている事をすべて九尾に話した。




『……なるほどね』

 と、九尾が話を聞き終えたところで、昼休み終了のチャイムが鳴った。

 しかし、桜井と茅野はもちろんの事、西木も教室へ戻ろうとしない。サボる気満々である。

『い、今、チャイムが鳴ったけど……』

 と、九尾が心配げに言ったが、茅野はそれを無視する。

「で、先生の見解を聞きたいのだけれど、例の翻訳家のブログの記述は本当の事なのかしら?」

 九尾は諦めて、その質問に答える。

『おおむね、間違いないわ。土地に棲まう古の存在の力を利用するための儀式ね』

「古の存在って、けっきょく、何なの?」

 桜井の質問に九尾が答える。

『たぶん、神様のようなものね……兎も角、かなりの力を持った何かである事は間違いないわ。現世に干渉する力を大幅に失っているけど』

「その力を利用するためには四人の生け贄が必要という訳ね?」

 茅野の言葉に九尾は『そうね』と言葉を返した。

『普段ならば特に害のない存在だけど、儀式を始める事によって“それ”は、この世への干渉力を一時的に取り戻すの』

「“チャンネルが合う”っていう訳ね……」

 茅野がケビン・オーキの遺したブログにあった言い回しを口にする。

『そうね。儀式を続けた生け贄は、そのまま“それ”に取り殺されてしまうわ。因みに儀式でもっとも重要なのは、いちばん最初のノートに名前を書く事と、暗号の書かれた場所を廻る事ね。この暗号の書かれた場所の中で、いくつか本物・・が混ざっている』

「本物……?」

 と、茅野が眉をひそめる。

『その古の存在が、かつて祀られていた場所の事よ』

 すると、とうぜんながら桜井が問う。

「その場所ってどこ?」




『その場所ってどこ?』

 その質問を受けた九尾は、スマホを耳に当てたまま、ソファーに寝転がって思案する。

 例の古の存在は儀式を介す以外で現世へ干渉できないので、儀式さえ行わなければ問題はない。

 あのノートも落書きも放置しておいて問題はないだろう。特定の手順を踏まない限り危険はないタイプの怪異である。

 そして、何より儀式は四人で行わなければならない。

 いくら、あの二人でも他人を巻き込んでまで、危険な儀式を行ったりはしないだろう。そこは信頼していた。

 しばらく、両面宿儺の右腕探しに力を注がなければならないので、正直に言って二人の相手をしている暇はなかった。

 何より、この二人に両面宿儺の件を悟られたくない。

 ちょうどよい目眩ましになりそうだ。

 そう考えた九尾は二人に“本物の場所”を教えてしまった。

 結果的に考えれば、やはり彼女は疲れていたのだろう。これは大きな判断ミスとなった。

 ともあれ、九尾は通話を終えてスマホを充電器に差すと、テーブルの上に置く。

 そして、眠気が遠退いたので何となくテレビをつけた。

 すると、画面に映し出されたのは、時事系の討論番組だった。

 国会議員の湯崎瀬緒が現在の日本の状況について、熱っぽく語っている。

 九尾は、この議員も確かあの二人と同じ・・・・・・・県の出身・・・・だったな……と、どうでもいい事をぼんやり思い出す。

 そして、テレビにリモコンを向けるとチャンネルを変えた。

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