【08】件の夢
気がつくと、小関明日香は『ファーストラウンド』の店内にいた。
誰もいない。
正面奥のカウンターも無人であった。客も店員も人っこ一人いない。
電子音と共に繰り返されるデモ画面。
いつも漂っている煙草の煙はなく、濁りなき薄暗がりが広がっていた。
小関は閑散とした店内を見渡しながら、恐る恐る入り口の前から歩みを進める。
そして、視線を正面奥のカウンターに戻した瞬間だった。
そこに異形のものがいた。
牛の顔。
喪服のような黒のスーツ。
牛頭の者が直立し、瞬きもせずにじっと見つめていた。
小関は凍りついて立ち止まり、瞳を恐怖で濡らした。
すると、その存在がゆっくりと口を開く。
……一週間以内に十の場所を巡れ。
それは、抑揚のまったくない女の声だった。まるで何かを読みあげているかのような棒読み。そして、学校の放送のように、ぷつぷつというノイズが断続的に混ざる。
……最初の場所は、二木商会の裏。次の場所はそこに記されている。
小関は思った。
この声、誰かに似ている。しかし、その名前と顔が出てくる寸前で小関は目を覚ました。
「今の……」
目を瞬かせ、上半身を起こす。
カーテンの隙間から射し込む朝日。
小鳥の鳴き声。
微かに味噌汁の匂いがした。
そこは紛れもなく、うんざりするほど見慣れた自分の部屋だった。
小関はベッドから飛び起きると、まず雨宮の家に電話をかけた。すると彼女も自分とまったく同じ夢を見ていたらしいと解り、
雨宮と話すうちに、本当にクダンサマは存在していたのだという実感が込みあげてゆく。その確信が寝起きだった小関の脳をみるみる覚醒させ、気分を高揚させていった。
未来を操る能力を持つクダンサマの実在。
儀式を達成した者には、何でも一つ願い事を叶えてくれるのだという。
その絵空事がにわかに現実のものとなる。
小関のクダンサマの儀式へのモチベーションは最高潮となった。それは、雨宮も同様のようだった。
このあと、阿岐や冨田とも連絡を取り合い、四人で集まる事となった。
『ファーストラウンド』に程近い、町外れの田園地帯の先にその場所はあった。
背の高い藪に囲まれた青の瓦屋根や、くすんだ白い外壁には、
正面に内側へとたわんだシャッターがあり、その上部の看板には掠れた文字で『二木商会』とある。
そこは町内にかつてあった問屋の倉庫だったのだという。その荒れ果てた様子から、今はもう使われておらず、訪れる者も滅多にいないらしい事が
裏手には森があり、この大神町で“二木商会の裏”といえば、そこで間違いないはずだった。
ともあれ、小関は朝食を手早く済ませたあと、自転車を漕いで町外れへと延びた道の先にある、その場所を目指す。
すると、すでに“二木商会”の敷地の入り口前の路上に、自転車へと股った三人の姿があった。
それを見た小関は、ハンドルを握る右手の腕時計に視線を落として時刻を確認した。
また時間に遅れた訳でもないのに、自分がいちばん最後であった事に小関はうんざりする。
案の定、冨田と雨宮は、また文句をつけてきたが、いつも通りそれを適当に受け流していると阿岐が本題を切り出してきた。
「……そんな事より、この裏だろ? 早く行って見ようぜ」
「うん。でも、十の場所を一週間以内に回る……? 全部、この町の中なのかな?」
と、雨宮が首を傾げた。
「だったら、いいけど……」
そう言って、阿岐が肩を
「もし、遠い場所なら、今回も先生に車出してもらえば……」
彼の言う先生とは教師の小関紗由である。
彼女は生徒との距離が近く、夏休みに、この場にいる四人を含めて何人かの生徒と一緒に、近くの海水浴場へと出かけていた。
「でもさあ、流石に小関ちゃんでも、無理じゃない? クダンサマなんか話しても信じてくれないだろうし」
と、異を唱えたのは冨田だった。
「……取り敢えず、ここで話していても仕方がないし裏手の森に行ってみようよ」
そう小関が言うと、雨宮が鼻を鳴らして笑い、
「いちばん、遅れてきた癖に……」
と、言った。
小関は一気に鼻白んだ気分になったが、特に言い返すような事はしなかった。
四人は二木商会倉庫の敷地脇と田んぼの境にある畦道を通って、裏手の森へと向かった。
四人は森の中をしばらく彷徨い歩いた。行けるところにはすべて足を踏み入れ、縦横に枝を伸ばした
「……ねえ、けっきょく、何なの?」
疲れてきたらしい雨宮が唇を尖らせる。
「……これで良いのかな?」
小関も不安げに顔をしかめた。
「次の場所が記してあるって、言ってたけど……」
冨田はそう言って、飛び交っていた羽虫を右手で払った。
すると、阿岐が何かに気がついた様子で、木々の間を
「……おい、あれ」
それは、彼が指を差した木立の向こう側だった。
二木商会の倉庫の裏手が見えた。
その裏手の壁に“ro2y2o5”で始まる文字列が赤いスプレーで記されている。
「あれか? 次の場所って」
阿岐が首を捻る。
「いや、ヤンキーとかの落書きじゃない?」
雨宮が言った。
「でも、そういうのって“夜露死苦”みたいな、漢字の当て字じゃなかったっけ?」
と、小関。
落書きというよりも、何かの暗号のような……。
そこで、冨田が鞄の中からメモ用紙とボールペンを取り出した。
「……取り敢えず、あれしか変わったものはないし、私、メモしておく」
「あ、私も」
と、小関もウェストポーチから筆記用具を取り出した。
それから、四人は森を出て家へと帰った。
小関はメモ用紙を見ながら、謎の文字列の意味を考えてみたが、けっきょくよく解らなかった。
そして、次の日だった。
学校へ行くと、すでに雨宮と冨田が席に着いた阿岐と何やら話し込んでいた。
小関は自分の机に鞄を置くと、三人のもとへと向かった。
「おはよう」
すると、雨宮が皮肉めいた様子で「やっと、来た」と言った。
次に口を開いたのは阿岐だった。
「……あの昨日のやつ、冨田が解読したらしいぞ」
「え、本当に?」
小関は目を丸くして、冨田の顔を見た。彼女は腹立たしくなるほど得意げに胸を張りながら言う。
「……昨日、メモを見て考えてたら、閃いちゃって!」
「で、小関も来たし、もったいぶらずに教えろよ」
阿岐が促すと、冨田は「ちょっと、待って」と言って、スカートのポケットから折り畳まれたルーズリーフを取り出して机の上に広げた。
そして、得意満面の笑みを浮かべながら解説を始める。
「これは、シンプルな換字式暗号で……」
その解説を聞きながら小関は思った。
さして、成績のよくない冨田が、こんな暗号を自力で解ける訳がない。きっと、彼女にクダンサマの儀式の事を教えた誰かに聞いたのだ。
その人物ならば、あの文字列が何を意味するのか知っている可能性が高い。
しかし、それにしても、その人物とはいったい誰なのだろうか。
再び、その疑問が小関の脳裏によぎったのだった。
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