【11】最後の幸せ


 少年は灰谷桂太郎になる前に、一度だけ六骨鉱泉に訪れた事があった。

 それは、少年がどん底に落ちる直前。まだ彼が小学六年生のときの事だった。妹と母親と、その母の新しい男と一緒に日本海側へドライブに行った。

 少年の母親は新しい男ができると別人のように優しくなった。家にも毎日帰って来るし、怒鳴ったり、殴ったりしないし、ご飯も作って、掃除も洗濯もしてくれた。優しく頭を撫でてくれたし、抱き締めてもくれた。

 まるで・・・自分がまともな・・・・・・・母親であるか・・・・・・のように・・・・

 それが解っていたから、少年も妹も、母親の新しい恋人をいつも歓迎した。

 このときの新しい男は身なりもよく、頭が良さそうで、自分たちとは別の世界からやってきたかのような人だった。

 実際、彼はメイカ・・・の生まれのお坊ちゃんであると、のちの灰谷少年は母の口から耳にした記憶があった。

 この人が、本当の父親になってくれたらいいのに……。

 そんな希望を強く抱いた少年と妹は、この日も精一杯、良い子でいるように努めた。

 新しい男はずっと優しかったし、母親も上機嫌でずっと笑っていた。本当に幸せで楽しかった。

 朝早くに起きて、高速道路を下り、昼前に日本海側に着いて、景勝地を回った。

 ランチは山盛りの海鮮丼で、ふだん食べているスーパーの値引き品の菓子パンとは比べ物にならないほど美味しかった。

 砂浜でも、少しだけ遊んだ。妹と波打ち際ではしゃぎ回った。ふと気がつくと、その様子を新しい男と母親が肩を寄せあって眺めていた。二人とも微笑みあっていた。

 何もかもが上手くいっていて、それがこれから先もずっと続いてゆくような気がした。今度こそ、もう大丈夫なんじゃないか……少年も妹も、そんな風に勘違いしてしまった。

 ともあれ、そんな最高の一日は瞬く間に過ぎ去り、四人は宿泊先である六骨鉱泉へと向かう。

 山々に囲まれた只広ただひろい駐車場に新しい男のカローラが駐車場に到着したときには、もう日が沈みかけていた。

 エンジン音が止まった瞬間に、のちの灰谷少年と妹は、奇声をあげて後部座から飛び降りた。

「こらっ! ちょっと、二人とも、待ちなさい」

 母親も助手席から飛び出し、声をあげた。その言葉には、いっさいの怒気は含まれていなかったが、少年も妹も反射的に凍りついて脅えた眼差しを母親に向けた。

 すると、運転席から姿を現した新しい男が朗らかな笑顔を浮かべながら言った。

「……まあ、いいじゃないですか。勝江さん」

「でも……」

 と、唇を尖らせる母親。新しい男は笑顔のまま、少年と妹に近づくと、その頭を順番に撫でた。

「……まだまだ元気だなぁ。二人とも」

 少年と妹は笑顔で男の優しげな顔を見あげて元気よく頷く。

 すると、男は駐車場の奥に連なる山の斜面の手前に立つ看板に目を留めた。その看板には、こう記されている。


 『六骨の森わくわくアスレチックロード』


 看板の向こう側にある斜面には、木の階段や、いくつかの遊具が並んでいた。

 男が二人の顔を見渡した。

「……アスレチックだって。どうする? 行くか?」

 少年と妹は元気よく返事をする。それから、新しい男と共に、看板の方へと無邪気に駆けてゆく。

「本当にもう……」

 母親は、その三人の後ろ姿を見守りながら、呆れた様子で微笑んだ。

 これが、のちの灰谷桂太郎の脳裏に残る最後の幸せな記憶であった。

 このとき、ジャングルジムの前で妹と共に撮影した写真は、ずっと少年の心の支えとなり、長らく彼の事を正気の縁で留め続けた。




「……確か二〇一四年だったかしら?」

「何があったの?」

「レミントン社製のライフルに暴発の危険性がある不具合が見つかり、大規模リコールへと発展したの。元々、二〇一二年に小学校で起こった銃乱射事件の影響で小売店が販売を自粛した事に加え、この一件が後のレミントン社経営破綻の原因になったといわれているわ」

「ふうん……」

「これは、そのときのリコール対象となったモデルみたいね」

「じゃあ、起こるべくして、起こった感じ?」

「そうね。そういう銃を所持していると、普通、警察の方から連絡が行くはずだけれど。たぶん、まともなルートで手に入れたものではないのだと思うわ」

「なるほど……」

 と、桜井が鹿爪らしい顔で腕組をしたところで駒場が突っ込んだ。

「何で、そんなに冷静なんですかっ!!」

「ん?」

「何かしら?」

 桜井と茅野が駒場の方へと視線を向けた。彼女は少し離れた場所で、怪物に出会ったときのような青ざめた顔をしている。

 因みに、土井は部屋の外で胃の中のものをぶちまけている真っ最中であった。

 さておき、駒場は二人の足元らへんに震える右手の人差し指を向けながら、血の気の失せた唇を震わせた。

「……それですよ! それ!」

「ん?」

「それとは……?」

 二人は自らの足元を見渡し、同時に「あー」と声をあげた。

 駒場は涙目で声を張りあげる。

「あー! じゃないでしょう! 死体ですよ! 死体! し、た、い!」

 それは、仰向けで倒れた灰谷桂太郎の亡骸であった。

 しかし、桜井と茅野は冷静さを崩さない。

「死体だねえ」

「まあ、生きてはいないでしょうね」

 二人の態度に、駒場は半泣きになりながら喚く。

「とっ、兎に角、けっ、警察に……」

 その言葉を桜井が右手をかざして制する。

「通報はちょっと、待って欲しい」

まるで、犯罪者の言い分であった。茅野も頷いて同意する。

「そうね。私たちの知り合いに県警の刑事がいるから、そっちに話を通した方がいいわ。このまま通報したとしても、不法侵入を咎められるかもしれない。コンプライアンスに厳しい昨今は、ちょっとの事でも炎上騒ぎになる。こっちに非がなくとも動画の撮影中に警察沙汰になったなんて噂になれば、何を言われるか解ったものではないわ。ついこの前の一件もあるし、これ以上、さやぽんさんのパブリックイメージを損なうのは得策ではないと思うの」

「でも……でも……」

 逡巡する駒場に茅野は優しい笑顔を浮かべて言った。

「大丈夫よ。その刑事さん、前回のさやぽんさんの誘拐監禁事件のときもお世話になった人だから。きっと、今回の件も上手く処理してくれる」

「そうなんですか……?」

 確かに言われてみれば、前回の事件の詳細は不自然なほどに報道されていなかった事を思い出す。土井本人も、多くの事柄について警察に口止めされたと言っていた。

 そんな事もあり、冷静さを欠いていた駒場の心は、次第に茅野の提案へと傾きかける。

 そして桜井が、きりっ、とした表情でとどめを刺す。

「だいじょぶ。その刑事さん、不法侵入ぐらいで怒る人じゃないから」

 嘘である。

 しかし、駒場はどうやら納得したようだ。

「……まあ、そういう事なら」

 その言葉を待ってましたとばかりに、検屍に取り掛かろうと灰谷の死体に向き合う茅野。そこで、桜井が、それに気がつく。

「……ねえ、循。これ」

「何かしら?」

 桜井の手に持たれていたのは、二枚の写真だった。 

「そこに落ちてた」

 一枚目は、四十代くらいの女性を写した証明写真だった。

「この人、誰かに似てるよね」

「そう言われてみれば、そんな気もするわね」

「それから、これも……」

 二枚目は折り目がついた写真だった。

 それを見た瞬間、茅野の口角がわずかにあがる。

この写真・・・・知っているわ・・・・・・

「え?」

 桜井が目を見開く。

 すると、茅野はその写真について述べる。


この男の子・・・・・一九九八年に・・・・・・自分の妹の死体・・・・・・・を食べた事で・・・・・・有名になった・・・・・・少年A・・・

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