【10】狂気の臨界点


 悪天候が続き、室内の空気は陰鬱で湿っていた。真夏だというのに、少しだけ肌寒い。

 ベランダに続く掃き出し窓の向こう側では、いつ終わるともしれない雨が何日も前から降り続いていた。

 その雨音と共に鳴るのは虫のあしおとと羽音。そして、親指の爪を前歯で削る音だった。

 それらを耳にしながら、リビングの床で膝を抱え、室内の薄暗がりを見つめる十四歳の少年。

 少年は右手の親指をくわえながら、起きあがり小法師こぼしのように身体を揺らす。

 彼こそ・・・後の灰谷桂太郎・・・・・・・であった・・・・

 その少年の目線は開け放たれた襖の向こうへと注がれている。

 そこには手狭な和室があり、奥の押し入れの前にこんもりと盛りあがった布団が見える。彼の妹が横たわっているはずの布団が。

 昨日からずっと動いていない。声をかけても返事をしない。怖くて近づけない。

 もし布団を捲ったとき、最悪の現実が待ち受けている事を、少年は恐れていた。

 しかし、もしも、妹が生きていたところで、まだ幼く未熟な彼には、どうしたらいいのかが解らなかった。

 救急車を呼んで、病院へ連れて行くか。

 しかし、そんな事をすれば、きっとまた怒られる。

 母親からは「恥をかかせるな」と。

 他の大人からは「どうして、こんなになるまで黙っていたんだ」と。きっと、責められる。

 でも母親が怖い。怒鳴られたくない。そんなのは嫌だった。もう何も聞きたくなかった。

 少年は両耳をふさいで口から溢れ出そうになった悲鳴を必死に堪える。

 何もしたくなかった。

 このまま死んでしまいたかった。しかし、それすらできなくなるほど、彼の精神は追い詰められていた。

 死にたくない。

 もう痛いのも、苦しいのもごめんだった。

 このままでは、母が帰ってくるまで持たないかもしれない。

 様々な事柄が臨界点に近づき、押さえつけていたものが理性を突き破って溢れ出しそうだった。

 おまけに彼を嘲笑うかのようにゴキブリや蝿たちが、かさかさと音を立てた。まるで、彼を深淵に誘うかのように……煽り立てるかのように……。

 やがて、少年は諦めた様子で溜め息をつくと立ちあがる。ゆっくりと鴨居を潜り抜けて、和室へと足を踏み入れた。

 じめじめとした畳を踏みしめて、少年は妹の布団を見おろす。そして、彼は手を伸ばし、布団をはぎ取った――



 黄昏の朱色に染めあげられた藪の向こうに、広々としたかつての駐車場が見える。

 その右奥に佇むのが“六骨鉱泉”であった。

 長年の雨風に侵食されたコンクリートの外観は、汚ならしい染みや、ひび割れに侵食されている。屋上に設置してあるいくつかの錆び付いたタンクや、その周囲を取り巻くダクトは、どこか生き物の内臓めいて見えた。

 そして、そのエントランスへと続くスロープの前に、中型のトラックが停車していた。

 そのトラックからやや離れた位置に、駒場京は白いミニバンを停めた。すると、土井が真っ先に助手席を飛び降りて、トラックの方へと駆け寄る。

「……ちょっ、咲耶さん」

 駒場が慌てて、彼女のあとを追った。

「私たちも行きましょう」

「らじゃー」

 茅野と桜井も車を降り、トラックの方へと向かう。

 それは、生鮮品などの運搬に使われる車種であったが、企業名や店名のロゴはついていない。

 そして……。

「銚子ナンバーね」と、土井がトラック後方で声をあげた。

 すると、車体の周囲をゆっくりと歩き始めた茅野が言う。

「見たところ、長い間、放置されていたものではなさそうね。つまり、ここに今、私たち以外の人間がいるという事」

「誰が、こんな場所に……やっぱり……」 

 駒場が不安げに眉をひそめる。

 すると、桜井がぼんやりとした眼差しで、コンテナ後部の扉を見つめながら言う。

「……いずれにせよ、このトラックなら、誰かを誘拐して、さらって、この場所に運んでくるにはうってつけだよね。つまり……」

 そして、六骨鉱泉の建物へと視線を向けると、言葉を続ける。

「この中に、誘拐犯がいる可能性が高い!」

 その桜井の表情を見て、駒場は首を傾げながら突っ込む。

「何で、嬉しそうなんですか?」

「それは、さておき……そろそろ、暗くなるし準備を整えて、突入しましょう」

 と、茅野が建物の敷地裏手に連なる山の斜面を見あげながら言う。そこに生い茂る藪の中からは、何らかの人工物が突き出ている。そして、建物の左側の駐車場との境目には大きな看板があったが、蔦に覆われているために何と書いてあるか読めない。

 土井もその看板の方へと視線をやりながら、茅野の言葉に「そうね」と返事をして、荷物を取りにミニバンの方へと戻る。

 桜井と駒場も頷く。

 こうして、四人は準備を整えたあとで、六骨鉱泉の屋内へと突入した。



 ちょうど、そのときだった。

 陽輝こと山添春樹は、そろりと開いた扉の向こうから恐る恐る顔を覗かせて、外の様子をうかがっていた。

 彼が開いたのは二つある出口のうち、窓が並んだ壁とは反対方向にあった小さな扉だった。因みに、もう一つの出口は、その小さな扉に向かって左側の壁にあった。

 そちらは両開きの大きな扉で、山添は最初その扉を開けようとしたのだが、どうやら外から鎖か何かで取っ手を縛っているらしく開かなかったので諦めた。

 それから、小さな扉を開くと、そこには細く長い廊下が横切っていた。

 廊下右側の突き当たりは、どうやら非常口らしく、その手前の向かって右に登り階段があった。

 対する左側の先へ行けば、広々としたホールに出るようだった。さっきの部屋の中にあった両開きの扉も、どうやらそこに通じているらしい。

 そして、斜向かいに見える扉の向こうから、微かに何かの音が聞こえる。

 低く唸るような振動音。

 山添は、ごくりと唾を飲み込み、ゆっくりとその扉へと近づく。ドアノブを捻るも、鍵が掛かっていた。灰谷から奪った鍵で開錠を試み、恐る恐る扉を開ける。

 そこは、監禁されていた部屋よりは狭かった。やはり、外に面した割れ窓はブルーシートで覆われている。

 入り口から奥の壁には水回りとガスコンロがあり、右上に埃の詰まった換気扇があった。どうやら、そこはかつての厨房だったらしい。

 真ん中には大きな調理台があり、木製のまな板と調理器、食器類が無造作に置いてある。DIYにでも使いそうなノコギリきり、ハンマーなどの工具も見られた。アウトドアで使うLEDランタンもいくつかある。

 更に入り口の左奥の壁際には、山積みの一斗缶、シンクの中には透明なポリタンクが三つ置いてある。

 そして、右の壁際にある、真新しい業務用冷蔵庫、そのとなりでは大型の発電機が、共に低い稼働音を立てていた。

 陽輝は一通り部屋の中を見渡したあと、喉が渇いている事を自覚する。

 彼は部屋に足を踏み入れて、扉を閉めると冷蔵庫の方へと向かった。

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