【09】Who are you?


 山添はどうにか倒れたまま動かない男の元に辿り着いた。

 仰向けになったまま見開かれた双眸そうぼうには、生命の光は宿っていない。溢れた血潮の量は尋常ではなく、それだけをかんがみても、確実に彼の生命が潰えていると確信できた。

 しかし、山添は彼が今にも飛び起きて、襲い掛かってきそうな気がした。

 ゾンビ映画のように、割れた額から血を流したまま、白眼をむいて飛び掛かってくるのではないか。

 彼は妄想に脅えながら、恐る恐る爪先で彼の左脇腹を何度か蹴った。

 やはり、男の反応はない。

 目の前で倒れたまま動かない男が死体であると、ようやく実感する事ができた。

 と、同時に蹴った爪先から伝わる重みと柔らかさに生理的嫌悪感を覚え、再び嘔吐えずく。

 すると、その呻き声を割って、じゃり、という金属音が微かに聞こえた。男の革エプロンのポケットに入った鍵束の音だった。

 山添は少し考え込んだあと、倒れた男の頭の方へと移動した。それから男の足の方を向いて、その顔の上を跨ぐ位置に椅子の脚を降ろす。

 椅子に座った状態で右足を伸ばし、エプロンのポケットに爪先を突っ込む。

 何とか鍵束を男の胸の上まで引きずり出した。

 それから、山添は再び倒れている男の左側面に回り込み、両膝を床に着いた。目を瞑り、男の身体に上半身を投げ出す。口で鍵束を咥えようというのだ。

 懸命に死体の胸の辺りへと鼻先を擦りつけながら、鍵束を求める山添。

 男が着けていた革エプロンからは、生臭い脂と腐った血の臭いが漂ってくる。その悪臭によってむせ返りながらも、山添はどうにか目的を果たす事ができた。

 それから、彼は立ちあがり、近くにあったスチールデスクの上に咥えていた鍵束を落とす。見れば、銀色に輝く金属のリングに、三つの鍵がぶらさがっている。

 大きめのディスクシリンダー錠が二つと、シンプルなウォード錠が一つ。

 山添は自らの足首に、はまったままの手錠に目線を落とし、鍵穴の大きさからウォード錠の方が手錠の鍵であると推測する。

 そのあと、スチールデスクに背を向けて、どうにか鍵束を後ろ手で掴もうとした。しかし、背負った椅子が邪魔になって、なかなかうまくいかない。

 それでも、口で鍵束の位置を机の縁ぎりぎりに調整し、海老反りになるなどして、どうにか右手の指で摘まむ事に成功する。そこから、左手首の手錠の鍵穴にウォード錠を差そうと試みた。

 そして、数分間の試行の末、山添は首尾よく手錠の鍵を外す事ができた。背もたれの支柱に巻きついていた鎖を振りほどくと、椅子が床に落下して転がる。それから、山添は右手首と足首に掛かったままだった手錠を外した。

 自由を得た事による安堵感も束の間に、彼はスチールデスクのパソコンへと向き直る。

 しかし……。

「何だ? これ……」

 画面は真っ暗だった。

 マウスを握りクリックしても、何の反応も示さない。

「……どういう事だ?」

 必死に電源ボタンを押す。やはり、何の反応もない。次にコンセントを確認する。

 ちゃんと、ポータブル電源に刺さっていた。しかし、そのポータブル電源のバッテリーランプが赤く点滅している。

「ふざけやがってぇえっ!」

 山添はオフィスチェアを蹴飛ばし、脂ぎった頭髪を掻きむしった。電源が切れている。これでは、どうしようもない。

「糞糞糞糞糞……あああああっ……」

 山添は半狂乱になり、男の死体を足の裏で蹴りつけた。

 腹、脚、腕、顔面……何度も何度も蹴りつけた。

 そのたびに男の身体は、満杯になって膨れた水袋のように力なく揺れ動く。

 そして、ひとしきり叫び散らし、気が済んだ頃だった。

 少し冷静になった彼は考える。

 きっと、予備の電源がどこかにあるはずだ。それさえ見つける事ができれば、パソコンを動かす事ができる。

 彼は、電源を探す事にした。

 再び鍵束を手に取り、山添はその部屋の二つの出口のうち、近い方へと向かおうとした。

 そこで、ふと気がつく。自分が下半身丸出しであった事に。しかも、裸足である。

 山添は少し迷った末に、死んだ男のズボンを拝借する事にした。

 倒れていた男のエプロンを捲りあげ、男のベルトを外した。両足の靴も脱がす。男が穿いていた作業着のズボンを脱がす。

 それらを身に着け始めた。

 そして、ベルトを閉め終わったところで、ポケットに何かが入っている事に気がつく。

 それは、黒い安物の財布だった。

 しめたものだと、山添は口角をわずかにあげた。

 この先、お金が必要になるかもしれないし、この場所の周辺で買い物をして、そのレシートでも取ってあれば、現在位置を大雑把に把握できるかもしれない。

 そして、何より、自分をこんな目に合わせた男の素性に、わずかながらの興味があった。 

 山添は躊躇ちゅうちょなく財布を開ける。

 現金は三百二十円。あとはクレジットカードやSuicaなどだった。レシートの類は見当たらない。

 他には免許証が入っており、そこで山添は男の本名を知る。

「灰谷……桂太郎? 誰だ?」

 心当たりはまったくない。そして、予想通り、この男が井筒朔美の父親ではなかった事に山添は困惑した。

 いったい、こいつは何の目的で……。

 と、思案しかけたところで、彼は気がつく。

「生年月日……一九八四年五月三日……? という事は、こいつ、まだ三十六歳か?」

 とても、そうは見えなかった。

 真っ白な髪の毛や、しわの多い顔を見るに、少なくとも五十歳を超えているように思えた。

 そして、次に山添はカード入れの中にあった、あるものに気がつく。

 それは、二枚の写真であった。どちらも、井筒朔美を映したものではなく、彼の知らない人物であった。

 まず一枚目は履歴書に張る証明写真だった。

 四十代くらいの女性のもので、顔立ちは整っていたが、酷く疲れた印象を受けた。どこかで会った事があるような気がしたが思い出せない。

 因みに、自分が肉体関係を持った女ではないと、山添は明確に断言ができた。なぜなら、その女性の年齢は彼のストライクゾーンから大きく外れていたからだ。

 そして、二枚目の写真は細かく折り畳まれていた。

 折り目が裂け掛けており、開くとバラバラになりそうになる。

 それは、小学生高学年ぐらいの男児と、それよりも年下であろう女児が並んで写っている写真だった。どこかの公園で撮影されたものらしい。背後にはジャングルジムらしき遊具が写り込んでいる。

 その写真を見たとき、山添は記憶の底に引っ掛かりを感じた。

 しかし、それが何なのかまでは解らなかった。

 けっきょく、山添はその写真を男の死体に投げつけるように捨てて、財布をポケットの中に入れた。部屋の出口へと向かう。

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