【08】リアル脱出ゲーム


 轟音が響き渡った。

 その瞬間、陽輝こと山添春樹は大きく目を見開いて飛びあがった。

 椅子の脚が浮いて、がたん、と音が鳴る。右側の壁際で背を向けていた白髪の男が力なく崩れ落ちた。同時に銃口から煙をあげたレミントンが床に倒れて金属音を立てた。

 砕けた額からおびただしい血潮が溢れ、顔面からしたたり、コンクリートの床に刻まれたひび割れを満たしていった。

 山添は何が起こったのか解らないまま、その光景を見つめ続けた。

 倒れた男。

 鮮血。

 銃。

 唐突な轟音……。

 それらが次第に彼の脳裏の中で繋がり、意味をなす。

 銃の暴発。

「うっ……」

 次に訪れたのは、死への忌避感から湧きあがる生理的嫌悪。精神的な緊張と衝撃。それらがすべてないまぜとなり、山添の胃袋を激しく蠕動ぜんどうさせた。

「うおええええげえ……」

 彼は大きな呻き声をあげながら、嘔吐物おうとぶつを吐き出す。

 薄茶色の液体が彼の顎下から胸元、下腹部までを汚す。

「ごええええええ……」

 そして、もう胃の中に吐き出すものが無くなると、山添はよだれと鼻水、涙を垂れ流しながら激しく咳き込んだ。

「ごほっ、ごほっ……」

 それから長い時間を掛けて息を整え、ようやく落ち着いたとき、山添の口元が歓喜に歪む。

「……ふふっ。あははははっ」

 彼は吹き出し呵々かかと笑った。未だに動かない白髪の男を嘲笑し続けた。

「……死んだ……死にやがった! ざまあみろ! 馬鹿か、お前はっ!」

 しばらくの間、狂笑と罵倒がその廃屋の一室に響き渡る。

「このクソサイコ野郎が! 俺様みてーな、上の人間・・・・養分ようぶんになるためだけに存在している下等生物のメスが一匹死んだからって、なんなんだよ! 知るかボケが!」

 山添は陽輝ファン――はるきっずたちの事を、まさに家畜か奴隷のように考えていた。

 搾取さくしゅされ、踏みにじられ、与えられたものを鳴き喚きながら享受するだけの存在。

 それが例え、ゴミでも汚物でも、自らの信仰対象から下賜かしされたものなら、何でも喜ぶ馬鹿共。

 山添は自分が特別であり、そうした凡百の人々の上に君臨する資格を有しているのだと勘違いしていた。

 そして、あの白髪の男が唐突な死を迎えたのも、自らの存在が特別であるからだと解釈した。やはり、世界が自分を見捨てるような事はないのだと確信する。

 ともあれ、彼は考える。

 このまま、待っていても助かる事はできるだろう。

 今日の配信がこのまま行われず、音信不通となれば、今度こそ彼の関係者たちが警察を頼る事だろう。

 この場所がどこなのか、山添には解らない。

 しかし、日本の警察は優秀で、その日本は狭い。すぐに発見されるに違いない。

 しかし・・・それでは駄目なのだ・・・・・・・・・

 山添は倒れた男を見ながら不敵な笑みを浮かべた。

「……やってやる。ここから全部、取り戻してやる」

 たっぷりと深呼吸をしたあと、両目をぎゅっと瞑り、身体を捻って右側に倒れた。

「うっ……痛」

 床に身体を打ちつけた瞬間に顔をしかめる山添。そして、苦痛が収まるのを待ってから、彼は脚を伸ばしたり、身体をゆすったりしながら、椅子の脚に掛けられた手錠を外そうとする。

「くそっ……くそ……」

 彼の両足を拘束している手錠の鎖は、左右の椅子の脚に一周ずつ巻きついている。そして、両端の輪っかが、それぞれの足首に掛かっていた。外れそうで、なかなか外れない。

「畜生! 何で、俺がこんな……」 

 しばらくの間、がちゃがちゃという金属音と、彼の悪態が響き渡る。

 そうして、山添は、どうにか椅子の脚に巻きついていた鎖を外す。輪っかはまだ足首に掛かっていたが、鎖はそれなりの長さがある。

 これで、彼の脚はある程度の自由が利くようになった。

「くそっ、何で、俺が、こんな……」

 悪態を吐きながらも膝立ちになる。そして、ふらつきながらも立ちあがった。

 後ろ手で両手首を拘束している手錠も、足を拘束していた手錠と同じように、背もたれの支柱を一周している。

 これを外すには、手錠の輪っかを開錠するしかない。

 陽輝は椅子を背負ったような状態で、倒れたまま動けない白髪の男の方へと歩む。

 覚束おぼつかない足取りで、ときおりバランスを崩しながら、一歩一歩進む。

「……やっと、勝ち組になれたのに、こんな事で終わってたまるか」

 彼は気がついていた。

 このまま、救助されたとしても、待ち受けているのは地獄である事を……。

 配信で告白した女性遍歴。

 未成年者への淫行。

 この事実が明るみに出てしまった今、自らの社会的地位の失墜は避けられないだろう。配信者として引退し、表舞台から立ち去らざるを得ない。

 しかし、そんな事は絶対に我慢ならなかった。

 収入源を失う事よりも、何千、何万の人間に承認される悦びが味わえなくなる事の方が嫌だった。

 そのとき放出される脳内麻薬の量は何にも代えがたく、彼という人間の脳を支配していた。その快楽なしでは、もう生きてゆく事も難しい。

 だが、そうだったとしても、この絶望的な局面を打破するのは困難を極める。

 そんな事は彼もよく解っていた。

 しかし、まったく手詰まりという訳でもないと、山添は考えていた。

 彼はすべてを嘘だった事にするつもりだった。

 あの謝罪配信自体が壮大なヤラセという事にする。

 どうにか、チャンネル運営に携わる仲間と連絡を取り、ここを抜け出して種明かし動画を撮影する。

 幸いにも、井筒朔美の名前や、他の関係を持った女共の名前を配信で口にしてはいない。

 訝る者もとうぜんいるであろう。そもそも、エイプリルフールでもないのに、そんな嘘を吐く脈絡みゃくらくがまったくない。

 しかし、ファンに手を出した事を認め、凡百の豚どもリスナーに頭をさげるよりは数千倍もマシであると、彼は思った。

 そして、それが現実的に可能なのかどうかはさておき、現状を打破する道は、もうそれしかないと思い込んでいた。

「クソが! お前らみたいな下等生物と俺は、違うんだよ!」

 山添は倒れたまま動かない男に向かって喚く。それは、何としても今の地位や名誉を手放したくないという、どす黒い執念の発露であった。

 そんな彼の目的は、男のエプロンのポケットの中にあると思われる鍵束だった。

 男はいつも配信直前になると、そこから鍵束を取り出し、後ろ手になった両手首を拘束する手錠を開錠していた。

 まずは自由を得て、スチールデスクの上のパソコンで、自らのチャンネル運営スタッフと連絡を取る。

 そうすれば、きっと何とかなる。

 その一心で、彼は懸命に希望の糸を手繰り寄せるのだった。 

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