【18】後日譚


 白い天井――。

 右手の窓を覆う乳白色のカーテンの隙間からは、夜の闇がうかがえた。

 實田群司が目を醒ますと、そこは病院のベッドの上だった。

 上半身を起こして周囲を見渡し、自分が夢の中にいるのではなく、現実にいるのだと確認してからナースコールを押した。すると、じきに年配の看護師がやってくる。

 その看護師の言葉から、自分が廃屋の中で倒れていたらしい事を知る。廃屋とは、もちろん旧辺見邸の事であった。

 あの足元を覆い尽くしていた虫の大群や、頭の中に響き渡った辺見和華の声……。

 そして、謎の少女たち。

 今考えると、いくら辺見和華に命じられたからとはいえ、あの少女たちを殺そうとしていた自分に怖気おぞけが走った。そうする事が当然であると、何の疑いもなく信じていたのだ。まるで、誰かに思考を操られていたかのように。

 實田は包丁を持って何の躊躇ちゅうちょもなく、他人に切り掛かった記憶の中の自分が、自分ではないような気がした。

 そもそも、辺見邸へと足を踏み入れてから起こった事のすべては、悪い夢だったのではないか。そんな気がしてくる。

 そして奇妙な事に、いくら思い出そうとしてみても、あの少女に襲い掛かった瞬間、なぜか腹部に強い衝撃が走り、何かに顎を高速で打たれて以降の記憶がまるでない。

 看護師によれば、恐らくは転倒した際に脳震盪のうしんとうを起こしたのだろうという話であった。

 取り敢えず、現在は検査の結果待ちで、何事もなければ、明日の朝にでも退院できるらしい。

 ただ、どうも警察が、あの廃墟で倒れるまでの経緯や諸々もろもろの事情を聞きたがっているのだという。退院後に最寄りの警察署へと出頭して欲しい旨を伝えられる。

 気の小さな實田は、もしかしたら昨日のあれは夢などではなく、包丁で少女に切り掛かった事を何らかの形でとがめられるのではないかと、戦々恐々としながら一夜を過ごした。

 そして翌日の朝、検査の結果は異常なしとなった事を看護師に告げられ、退院手続きを済ませる。それから、実家に電話を掛けた。

 電話口に出たのは母親だった。大した言葉は交わさなかった。ここ何年も、ずっとそうだった。一つ屋根の下に暮らしているにも関わらず、お互いに無関心。

 しかし、母はその声に涙を滲ませ、ほっとした様子だった。

 それを耳にした實田の心は急激に現実へと引き戻される。彼は母親との通話を終えたあと、その足で最寄りの警察署へと向かった。




 警察署へと向かった實田は、取調室へと通される。そのあと、ずいぶんと待たされた彼の前にやってきたのは、スーツ姿の女性だった。

 いかにもドラマに出てきそうな女刑事といった印象のその人物は、県警の篠原とだけ名乗った。

 彼女は挨拶もそこそこに、あの廃屋へと向かった経緯や、覚えているところまでの説明を求められた。

 實田はあの廃屋を訪れた理由について「あそこは中学生時代の友人の家で、ふと懐かしくなったから」と答える。

 それから、あの館で起こった事は彼にとって夢のようなものだったので「覚えていない」と言葉を濁した。

 そのあと、何の意図があるのか良く解らない質問をいくつか受けたあと、無断で廃屋に立ち入った事を叱責される。

 篠原によれば、ああいう場所では崩落などの危険性の他、塗料や資材に使われた化学物質により、思わぬ影響が出る事もあるのだという。

 篠原によれば「あなたがとつぜん倒れて頭を打ったのも、そうした空気中の化学物質による中毒症状が原因」との事であった。

 ならば、虫の大群や辺見の声、そして、あの二人の少女も、その化学物質による幻覚だったのだろうと、彼は結論付けた。

 篠原には「頼むから、どうか二度と心霊スポットと呼ばれるような廃墟へ絶対に立ち入らないように」と、なぜか必死に懇願こんがんされる。そして、實田は解放された。

 

 こうして、彼の物語はエピローグを迎え、何の代わり映えもない日常へと回帰した。

 そして後日、テレビのニュースで、あの廃屋の和室の床下から行方不明だった辺見和華の遺体が見つかったという一報を受けての實田の一言。


「やっぱ、リアルって、訳が解んねー」


 現実とは、自らの凡庸な妄想では到底太刀打ち出来ないものである事を、彼は再び実感するに至る。

 こうして實田郡司は、一つだけ大人になる事ができたのだった。




 桜井梨沙と茅野循が道化師の館での探索を終えた翌日の事。

 そこは逗子の山奥であった。

 まさに天を突く槍のような杉の巨木が林立する深い森の中。

 ひっそりと佇む忘れさられた廃神社の倒壊しかけた社殿の中で、床板に向かって鶴嘴つるはしが勢いよく振るわれた。

 その柄を握るのは、蛍光色の派手なトレッキングウェアに身を包んだ若い男だった。

 警察庁の夏目竜之介である。

 その傍らで、不安げな表情のまま事の次第を見守る美女は九尾天全であった。

 夏目はふだんの軽薄な笑みをひそめ、黙々と作業を続ける。木板が金属の先端に穿たれ、みるみる間に割れ砕けてゆく。

 そうして、その社殿の床に、人が潜り抜ける事ができそうなくらいの穴が空いた、そのときだった。

「うっ。九尾ちゃん……たぶん、ビンゴだわ」

 夏目は手を止めると、防塵マスクで覆われた口元をさらに手で覆った。後ろに下がり、その穴に背を向ける。

 すると、今度は九尾が穴の中を懐中電灯で照らしながら覗き込む。

 その光の円の中には、床下一メートルくらいの位置に置かれた木箱が浮かびあがっていた。

 大きさは一メートル半。

 表面にはおびただしい量の、古びた梵字の札が張られており、荒縄で封印が施されていた。

「間違いないわね」

 九尾が木箱を見おろしながら言うと、夏目は袖口で額の汗を拭い、再び鶴嘴の柄を両手で握り直す。

「待ってて。今、穴を広げるから」

 そう言って、彼は九尾を押し退けて作業を再開する。

 すると、じきに穴は大きく広げられ、夏目によって中の木箱は引きあげられる。そのあと、九尾が丁寧に封印をほどき、蓋を開いた。

 その中から現れたものは……。

「くっそ。やべえ……ごめん。九尾ちゃん。これは、素人にはキツいわ。ちょっと、外に出て待ってる」

「うん」

 と、社殿を後にする夏目を見送ったあと、九尾は再び箱の中のものを見おろす。

 その瞳に映されたものは、一体の奇妙な木乃伊ミイラであった。

 苦悶と怒りに満ちた表情を見る限り、それは人間の木乃伊であった。

 しかし、その頭部は肩の中央から左右に分かれている。この木乃伊には二人分の顔があった。腕の本数も普通の人間より多い。


両面宿儺リョウメンスクナ……」


 それは、いにしえの時代、飛騨に現れたとされる異形の鬼神を象った最悪の呪物。本物の人間の木乃伊を材料とした禁忌の品。

 しかし、九尾の目の前にあるそれには、本来なら左右に二本ずつ生えた腕のうち、右側の腕が一本だけ足りなかった。

 九尾は屈み込んで、その腕があるはずの場所を確認する。

のこぎりか何かで切られている。いったい、誰が……」

 そのとき、外を取り囲むどこかの木々から山鳥が飛び立ち、重々しく横たわった静寂しじまを震わせた。





(了)

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