【16】純粋な悪


 辺見和華の人生で最も古い死にまつわる記憶は、二〇一〇年の事。彼女がまだ九歳のときの事だった。

 それは御盆前。

 辺見一家四人は伊豆へ旅行に出かけた際に、城ヶ崎海岸へと立ち寄った。

 この場所は、約四〇〇〇年前に大室山が噴火したときの溶岩によってできた景勝地である。

 その切り立った断崖を渡す吊り橋を、辺見和華は家族と共に渡る事となった。

「……おおお。和華! すごいぞ! ほら、スリル満点だ!」

 などと言って無邪気にはしゃぐのは、辺見和華の父親の祐三ゆうぞうであった。

 彼は手すりのロープから大きく身を乗り出し、真下で荒々しい飛沫しぶきをあげる波間に向かって、ビデオカメラのレンズを向けていた。

 そんな父の横顔をかたわらで見あげるのは、当時九歳の辺見和華である。

 そして、少し前方を兄の静馬と共に歩いてた母親の静香しずかが、足を止めて振り返る。

「ほら。そんなところで何をやっているの? 早く行きましょう」

「ああ。すまん。もうちょっとだけ……」

 などと言って、顔をあげて静香の言葉に答え、再び祐三は波間へとカメラを向けた。

 静香は「まったく、もう。いつまでも子供なんだから……」と呆れ顔で肩をすくめる。兄の静馬も、年不相応な父親の言動に困り顔で笑い、腰に手を当てて溜め息を吐く。

「先に行ってるわよ!」

 静香は静馬と共に、再び祐三と和華に背を向けて歩き出す。周囲には四人以外の人影は見当たらない。

 このとき、辺見和華が何を考えていたかといえば“もし父親が吊り橋から落っこちたらどうなるのか”という素朴な疑問だった。

 特に恐怖は感じなかった。

 落ちたら、お父さんはどうなるのか。お母さんはどう思うのか。お兄ちゃんは……。

 純粋な興味のみがそこにあった。そして、幼いながらも、その答えを得る事は叶わないのだろうと彼女は理解していた。

 しかし、次の瞬間だった。

「おわっ……」

 祐三が手を滑らせてビデオカメラを波間に落としてしまう。

 反射的に落下するカメラを掴もうと彼は手すりから更に大きく身を乗り出してしまった。そんな瞬間に、魔が訪れた。

 今なら、たった今抱いた疑問の答えを知る事ができる。

 咄嗟に辺見和華は動き出す。

 体勢を崩して踏ん張っていた父親の両足をすくうように持ちあげたのだ。重心が前方に傾きかけていた彼の身体は、いとも容易く手すりの向こうへと吸い込まれていった。

 ほんの悪戯心。

 ただの好奇心。

 しかし、それは最悪の結果を招いてしまう。数秒後、絶叫が響き渡った。



 二〇一二年の事だった。

 辺見和華は近所の本屋で、ある出会いを果たす。

 それは『世界猟奇殺人大全』であった。

 因みに彼女が、後に實田郡司へと語った“兄からこの本をもらった”というのは嘘である。なぜ、こんな嘘を吐いたかといえば、ある目的・・・・から、兄が猟奇的な物事に興味のある異常者だと、實田に印象づけるためだった。

 それはさておき、その分厚いハードカバーの本に記された連続殺人鬼シリアルキラーの数々……。

 彼らについて、一般的な感性を持つ者ならおぞましと思うのが当然であろう。しかし、辺見和華は違った。

 人殺しの・・・・彼女にとって・・・・・・彼らは同士だった・・・・・・・・

 そして、憧れの存在でもあった。

 その他大勢がやらないような事を容易くやってのける特別な才能を持った人間たち。

 彼らは死を操り、それをもたらす事で多くの人々の感情を恐怖によって支配する特権階級なのだと……。

 しかし、ジョン・ウェイン・ゲーシーだけは、どうしても苦手であった。

 辺見和華は物心ついたときからずっとピエロのメイクを恐れていたからだ。あの白塗りの笑い顔を見ただけで、恐ろしさのあまり足がすくんでしまう。

 そうなった原因については、まったく覚えていなかった。しかし、死んだ父の話では、三歳のときに夏祭りの際に開催された歩行者天国で、とつぜん風船を手に近づいてきたピエロに脅え、声を張りあげて泣き出したのだという。

 どうやら、そこから辺見和華の道化師恐怖症は始まったらしい。

 そのとき、なぜピエロを泣き出すくらい恐れたのかは、けっきょく不明のままだった。




 『世界猟奇殺人大全』を本屋で見かけて以来、みるみる間に連続殺人鬼シリアルキラーたちへと傾倒していった辺見であったが、後に實田郡司に語った通り、すぐに彼女は気がついた。

 彼らもまた哀れな犠牲者であるという事に。

 連続殺人鬼シリアルキラーたちは特別な力を持った超人などではなく、秩序ある社会をはみ出した落伍者に過ぎない。そんな風に、彼らに対して失望の念を抱く。

 そして、次第に彼らを見くだすようになった。

 自分は彼らのように虐待されて歪んだ訳ではない。欲望に負けて殺人という禁忌に手を染めた訳でもない。可哀想な存在ではない。

 普通の家に生まれ、普通に育ったにも関わらず、他者を――しかも、実の父親を殺した自分の方が、殺人鬼として高潔で純粋なのだと。

 唯一、彼らより劣るのは経験のみ。そう考えた辺見は第二の殺人を実行する事にした。

 それが、あのショッピングセンターの女子トイレで発生した通り魔殺人である。

 まず犯行にあたり、凶器を調達する事にした彼女は、近所にあった古びた金物屋で包丁を万引きした。

 この店は七十を過ぎた夫婦が営む時代に取り残されたような店で、店内は常に人気ひとけがなかった。並んだ品物は、すべて日に焼けて埃を被っていた。そんな店だった。

 カウンターには『御用の方は奥の方にお声がけください』と張り紙があるだけで、店主の姿はいつも見当たらない。とうぜんながら、防犯カメラのような設備もいっさいなかった。ゆえに、その気になれば包丁一本くらい持ち出す事は簡単であった。

 以降の辺見は、その手に入れた凶器を赤と青のドット柄の布にくるんで、常にポーチの中に入れて持ち歩き、犯行の機会を窺った。

 標的は、確実に殺せる相手ならば誰でもよかった。

 ゆえに母親を殺したのも、あのタイミングだったのも、すべてが場当たり的であった。

 その計画性のなさと、動機の希薄さが、警察の捜査に混乱をもたらした。

 その他の犯行に関する細かい点も、すべて茅野循の想像通りである。

 ともあれ、こうして辺見和華は、ただの人殺しから連続殺人鬼シリアルキラーとなったのだった。

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