【15 】悪魔の子


 二〇一四年四月前の喫茶店『異邦人』にて――。


「……何かの勘違いならよかったのですが」

 と、うつむき加減で語るのは、新照小学校の教師、常磐知世であった。

「あのときと、あまりにも状況が同じだったので……」

「あのとき?」

 そう言って、辺見静馬は、もう湯気を立てなくなったミルクティをすすり、黙って彼女の言葉を待った。

 常磐は、そのままの姿勢で記憶を反芻はんすうしたあとで、ゆっくりと口を開いた。

「……あれは、三年前だったかしら? 夏休み明けに、私の担任していた三年二組で飼っていた金魚が全滅していたの」

 その金魚は、休み中も飼育係が当番制で世話を行っていたのだという。そして、常磐が見る限りでは、そうした生徒たちの管理体制に落ち度はなかったらしい。

「その、金魚が死亡した原因は、何だったんですか?」

 静馬の質問に、常磐は沈痛な面持ちで首を横に振った。

「解りません。金魚に目立った傷はなかったし、水槽の水を詳しく調べた訳ではないので。ただ……」

「ただ?」

「その前日の放課後でした。校舎内を見回っていると、三年二組の教室から出てくる和華ちゃんの姿を見たんです」

 当時、常磐は辺見和華の担任ではなかったが、不登校児童であった彼女は教師たちの間ではよく知られた存在だった。

 ともあれ、とうぜんながら、彼女は疑問に感じた。

 なぜ、不登校児童の辺見和華は夏休みの最終日に登校し、自分のクラスでもない三年二組の教室から姿を現したのか。

 しかし、三年二組の教室から出てくる辺見を目撃したのは、廊下の離れた位置からだったので、特に声を掛けるような事はしなかったのだという。

「その金魚が死んでいると生徒から報せを受けたとき、頭の中には前日の和華ちゃんの事が思い浮かびました……でも」

 そこで常磐は言い澱むと、しばしの間だけ沈黙した。

 再び彼女が口を開いたのは、店内に流れていた緩やかなBGMの弦楽四重奏が終わりに近づいた頃だった。

「……怖かったんです。もし、思い過ごしだったら、私は彼女を不必要に傷つけてしまう……そう考えたら、どうにも踏ん切りがつかなくて……」

 常磐が沈痛な面持ちで口元を手で覆った。静馬は「ああ……」とだけ言って、ミルクティの残りを飲み干した。

 解らないでもない。

 兄である静馬からしても、和華は扱い辛い子供であった。

 到底・・普通の女子・・・・・らしからぬ事・・・・・・ばかりに興味を持ち・・・・・・・・・、自分の殻に閉じ籠って、本心を決して明かそうとしない。

 年相応に無邪気な一方で、ときに少女とは思えない怜悧れいりな一面をのぞかせる事がある。

 まだ年若い教師でしかない彼女からしたら、どう接していいのか解らないに違いない。

 いくら金魚を殺した疑いが濃厚であっても、確証がない状態では、踏み込む事を躊躇ためらうのもやむを得ない。

 静馬は当時の常磐が取った消極的な選択を肯定しつつ、彼女の次の言葉を待った。

 すると、常磐はゆっくりと呼吸を整えたあとで、再び語り出す。

「だから、そのとき、私は頭に浮かんだ嫌な想像を、単なる思い過ごしだって、そう自分自身に言い聞かせて、クラスの子供たちには金魚は病気で死んだって事にして、あの日の放課後に、和華ちゃんを見た事を、ついこの間まで忘れていたのですが……」

 そうして、今回の一件が起り、彼女は教師として後悔しているのだろう。三年前にもっと踏み込んでいれば、今回の事件は起きなかったのではないかと……。

 しかし、静馬は目の前の優しげな女教師が、あの妹をどうにかできるとは思えなかった。

 妹の……和華の心の闇は、一朝一夕でどうにかできるようなものではないと、彼は断言できた。

「えっと、今から四年前……」

 今度は静馬が語り始める。記憶の中に今も残る、怖気おぞけをもよおす光景を。

「父親が死にました。伊豆へ家族で旅行に行って……城ヶ崎海岸の断崖から、足を滑らせて、転落して」

 静馬は、その瞬間を見ていない。唯一の目撃者は、妹の和華だけだった。

 しかし、その後日、彼はしっかりと目にしてしまう。

「……葬式の最中、和華が楽しそうに微笑んでいたんです」

 その言葉を耳にした常磐は、ゆっくりと顔をあげて、青ざめた表情のまま大きく目を見開いた。




「……そもそも、動機については一考の余地はあるけれど、彼女が嘘を吐いていたとすれば二〇一二年に起こったショッピングセンターの事件は不思議な事は何もないわ」

「ピエロの変質者なんかいなかったんだね」

 と、なぜか残念そうに右拳を左の掌に打ちつける桜井であった。

 茅野は特に突っ込まず話を続ける。

「きっと、彼女が“犯人は小柄で身長は自分と同じくらい”だと証言したのは、検屍で刃物の刺した角度から被害者との身長差を割り出されたときのための辻褄合わせだったのでしょうね。だから、妙にリアリティのない犯人像になってしまった」

「なるほど……じゃあ、犯人がピエロの格好をしていたというのは?」

「その辺は、私の想像でしかないけれど……」

「いいよ。言って?」

 と、桜井に促され、茅野は己の見解を述べる。

「コルロフォビアの彼女にとって、ピエロは恐ろしい存在だった。たぶん“怪物がお母さんを殺した”という程度の意味だったのではないかしら?」

「あー……」

 と、得心した様子で声をあげる。茅野は更に話を続ける。

「きっと、母とトイレに行く事になったのは偶然だろうし、犯行もある程度は場当たり的なものだったのではないかしら? そうなると、もしかしたら、彼女は常に凶器になるようなものを携帯していた可能性があるわね。窓の金具に残されていた犯人の衣服の繊維は、そのとき所持していたハンカチや小物入れのような何かの布をわざと引っ掛けた」

「普段から包丁を持っているだなんて、普通の十一歳女児ならあり得ないけどさあ……」

 そう言って桜井は、何とも言えない表情で室内を見渡した。

 本棚に並んだ猟奇趣味的な書籍。昆虫の水槽。そこから発見された動物虐待の動画……。

「この部屋の主だったら、あり得なくもないよね」

「そうね」

 と、頷く茅野。

「犯行は場当たり的で、犯人は殺人鬼らしからぬ十一歳の少女であり、十一歳の少女らしからぬ殺人鬼でもあった。だから、警察は正確な犯人像が想定できず、彼女の嘘にも気がつけなかった……」

「なるほど、なるほど……」

 と、桜井は頷いたあと鹿爪らしく茅野に尋ねる。

「でも、証拠はないんでしょ?」

「ええ。そうね。確証はないから、単なる妄想に過ぎないわね」

 と、なぜかどや顔で答える茅野。

 そのあと二人は目線を見合わせて大爆笑した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る