【09】コルロフォビア


 まず、桜井と茅野は玄関の左側にあった二階へと続く階段をスルーして、一つ奥の部屋に足を踏み入れる。

 そこは、かつてのリビングだった。

 床に酎ハイの空き缶やコンビニ惣菜の皿、ビニール袋が散乱していたが、廃墟としての状態はかなり良い。

 前庭に面した掃き出し窓は、日に焼けた穴だらけのカーテンに覆われていた。その近くには海外の高級ブランドのものと思われる応接セットがあり、天井を見あげれば、埃まみれとなったシャンデリアがぶらさがっている。他の調度類も破損は少なく、古びてはいたが、在りし日の姿を保っていた。

 その室内の端にあるキッチンへの入り口での事だった。

「九尾センセに送ってあげよっと」

 桜井がまるでインスタ映えするスイーツの写真を友だちに送りつける、まっとうな女子高生のような顔で、スマホ画面のメッセージ送信ボタンをタップした。

「九尾先生は、確か今、逗子じゃなかったかしら?」

 キッチンの奥でデジタル一眼カメラを構えた茅野が答える。そのレンズは、帯のようなほこりに覆われた包丁ラックに向けられていた。

「旅行? 最近、流行りの“ごーとぅーなんとか”みたいなやつ?」

「仕事みたいね。私たちの興味を引きたくなかったのか、明言を避けて言葉を濁していたから間違いないわ」

「ふうん……相変わらず嘘を吐くのが下手だねえ」

 その九尾からの返信はすぐにはなかった。既読もつかない。どうやら、仕事で忙しいらしい。

「……取り敢えず、この部屋はこんなものね」

「そだね」

 と、二人はリビングの探索を切りあげて、玄関から裏手へと延びた廊下をさらに奥へと進んだ。


 ……その背中が遠退いた後だった。

 階段の影から様子をうかがっていた人影が足音を忍ばせて、二人と入れ替わるようにリビングの入り口を潜り抜けた。

 その人物はキッチンへと向かうと、ラックから包丁を抜き取り、まとわりついた埃を手で払った。




 やがて、桜井と茅野は、かつての辺見和華の私室へと辿り着く。

 入り口から見て右手の壁際には、三つの水槽が並んでいた。

 部屋の奥には、箪笥やスチール製の書斎机、そして、鏡が割れ落ちた化粧台が置かれている。

 その入り口から左側の壁を埋め尽くす本棚を見あげて、ぽつりと感想を漏らす茅野。

「ずいぶんと、いい趣味ね」

「循とお友だちになれそう」

 その隣で、同じく本棚を見あげながら、桜井がネックストラップに吊るされたスマホを構えて撮影ボタンを押した。

 ぱしゃり……と、機械的なシャッター音が鳴り響く。

 かつて、本棚で背表紙を並べていた本の半分近くは、周囲の床に落ちて散らばっていた。

 その中から茅野は足元に落ちていた一冊を拾いあげて、ぱらぱらとページを捲る。

「懐かしいわね……この本」

 目を細め、相好を崩す茅野。

 その背表紙には『世界猟奇殺人大全』とあった。

「循も読んだ事あるの?」

「ええ。確か小学一年生のクリスマスプレゼントがこれだったわ」

「流石は循だね。その頃から仕上がってたんだ」

「それほどでもないわ」

 などと、やり取りをしながらページを捲る茅野の手が、おもむろにぴたりと止まる。

「梨沙さん、これ……」

「どれ」と、桜井は本をのぞき込んで、目を丸くする。

「この写真、塗り潰されてるね」

「そうね。どうやら、ジョン・ウェイン・ゲーシーの写真みたいだけれど」

「その、なんちゃらって人、ピエロの人だっけ?」

 桜井もゲーシーについての話は、以前に茅野から聞いた事があったので知っていた。

「そうね。“キラークラウン”の異名を持つ連続殺人鬼シリアルキラーの事よ。そして、ピエロといえば……」

 茅野の言葉に桜井が頷く。

「うん。このスポットに関係ありありだけど……」

 そこで、茅野は『世界猟奇殺人大全』をぱたりと閉じた。そして、本棚の開いている適当な場所へと戻してから、他の連続殺人鬼シリアルキラーに関連した本を手に取ってページを捲る。

「……この本のゲーシーの写真も塗り潰されてる。それも、ピエロの格好をしている写真だけ……」

 そう言って、また別な本を手に取る。桜井も同じように別な本を手に取って開いた。

「これもだわ」

「こっちもだよ」

 そこで茅野は、しばしの間、思案顔を浮かべた後に、己の見解を述べた。

「……この部屋が、例の失踪した女子中学生の部屋だったとしたら、彼女は二〇一二年の事件で“コルロフォビア”を患った可能性もあるわね」

「こるろ……ふぉびあ?」

「コルロフォビアは、道化恐怖症の事ね。本来は笑いをもたらす、おどけたキャラクターである道化師に対して、強い恐怖を覚える心理の事よ」

「つまり、ピエロ怖い。でもなんで? ピエロは人を笑わせるのが仕事なんでしょ?」

「そうね。でも近年では、ピエロはどちらかというと、おどけ役よりも悪役としてのイメージが強くなっているわ。『バットマン』のジョーカーしかり、『IT』のペニー・ワイズしかり……そういった、ピエロの負のイメージが、この心理の根幹にあると思われるわ」

「それって、風評被害だよね」

 その桜井の言葉に、茅野は首を横に振る。

「一応、ピエロに対して、恐怖の象徴としてのイメージは昔からあるにはあったわ。エドガー・アラン・ポーの『飛び蛙』 オペラの『パリアッチ』 江戸川乱歩も『地獄の道化師』なんて作品を書いているわね」

「じゃあ、解釈一致か」

「……だから、この部屋の主は、元々は連続殺人鬼シリアルキラーなどの猟奇的な物事に興味はあったけれど、例の事件で本物のピエロの殺人鬼を目の当たりにしてしまい……」

「ピエロが怖くなった」と、桜井が茅野の言葉を引き継いだ。

「……でも、そうなると、お兄さんがピエロの格好をして自殺した理由が、ますます謎だよね」

 桜井が難しげな顔で考え込む。しかし、茅野は肩の力を抜いた様子で本棚に背を向けた。

「……その謎に関しては、恐らくまだピースが足りないわ。それより、こっちの水槽も気になるのだけれど……」

「確かに。何を飼ってたんだろ?」

 そこで、二人は反対側の壁際に置いてあった水槽の前へと移動した。

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