【04】兄妹


 實田郡司が辺見和華と初めて言葉を交わしたのは、二〇一五年のゴールデンウィーク明けであった。

 その日の放課後、生徒玄関で靴を履き替えていると、「ねえ」と、唐突に声をかけられた。

 それが、辺見和華であった。

 實田が驚いて声を出せずにいると、彼女は小悪魔じみた微笑を浮かべながら言った。

「……キミ、私の事、見てるでしょ?」

 その瞬間、實田の心臓の鼓動は跳ねあがる。

 彼女の方から、この何気ないタイミングで自分に話しかけてくるだなんて、思ってもみなかった。

 新学期が始まってから今の今まで、彼女はいつも一人で誰とも群れる事なく、孤高を貫いていた。

 ときおり、一年生のときの辺見をよく知らない者たちが、その存在に興味をもってコンタクトを取ろうとする事はあった。しかし、そんなときの彼女の反応は梨のつぶてであり、誰に対しても冷たかった。

 本人の指摘通り、辺見を常に観察し続けていた實田が知る限りでは、彼女から誰かに話しかけている姿を目にした事はなかった。

 だから、この辺見からの唐突なコンタクトに、實田は完全に意表を突かれてしまった。

 何か言葉を返そうにも、何を言ったらよいのかまったく解らない。

 代わりに、鏡を見ずとも、自らの顔色が耳朶みみたぶまで真っ赤に染まっているであろう事は、容易に想像がついた。

 たっぷりと、もたついていると、辺見は半目でにやつきながら、實田のつま先から天辺をめつけて、なぶるような口調で言葉を発した。

「私の事……好きなの?」

「はっ!? なっ……」

 豪速球のストレートで核心をえぐるような彼女の言葉に更なる動揺を隠せず、うろたえる實田。

 辺見は睫毛まつげの長さがよく解るくらいの距離まで顔を近づけると、實田の胸元を指差しながら意地悪く言う。

「……これも、図星?」

「うっ……うう……」

 嗅いだ事のないバニラのような甘い匂い。

 視界いっぱいに広がる辺見の整った顔立ち。

 もう實田の脳は熱暴走寸前だった。

 その至福と極度の緊張がない交ぜになった時間が数秒間続いたあと、辺見は、すっと、實田から身を離して肩をすくめた。

「そんなに、怖がんないでよ。何か私がキミの事を虐めてるみたいでしょ?」

「怖がって……など……ない……けど……」

 憧れの少女を前にして、ようやく口から出たまともな日本語がこれである。

 實田郡司は、自らが特別だとか、主人公だとか、内心でいきがっているが、所詮は人生経験の少ない十四歳でしかなかった。

 その事を自覚させられ、自己嫌悪に沈んでいると、信じ難い言葉が辺見の口から彼の耳元へと届いた。

「……じゃ、一緒に帰ろ?」

「はい?」

 てっきり、好意を持っていた事をあげつらわれ、小馬鹿にされると身構えていた實田は、拍子抜けのあまり間抜けな声を出して大きく目を見開いた。




 生徒玄関から出るとき、實田は辺見和華から彼女の家が、自分の家の割りと近くにあったらしい事を知った。

 話を聞いて、すぐに『ああ、あの家か……』と思い至る。

 もしかしたら、これまでにも彼女と何度も、どこかですれ違ったりした事があったのかもしれない。

 しかし、實田は、まったく実感が湧かなかった。

 辺見和華は、まるで別世界から現れたかのように彼には感じられたからだ。彼女が、これまでに、そんな身近な場所で存在していたなどと、信じる事ができなかった。

 その思いを素直に口に出すと、彼女は楽しそうに笑って、こう返答した。

「……それは、きっと、キミは他人に興味無さすぎるだけなんだと思うよ?」

「そうかな……」


 “キミは他人に興味無さすぎる”

 

 その言葉が妙に嬉しかった。

 それは事実で、彼女が自分の本質を理解してくれたのだと、舞いあがりそうになった。

 単に實田は他人に興味がないのではなく、コミュニケーションが苦手なだけであった。

 その事を認めたくないがために“他人に興味がない”という態度を取っているに過ぎない。

 ただ、それは兎も角として、自分の世界に閉じ籠りがちな彼が、他人事にうといというのは正しく、これまでに辺見和華の存在が目にはいらなかったのも、やむを得ない事であった。

 ともあれ、そうした彼女に自分の仮そめの本質を明かされた喜びに浸っていると、会話がぷつりと途切れていた事に気がついた。

 住宅街の路地を並んで歩く二人分の足音だけが、虚しく響き渡る……。

 實田は次第に気まずくなり、再び顔に熱を帯びさせるが、どんな話題を持ち出せば彼女が喜ぶのか、まったく見当もつかない。

 實田郡司は、彼女いない歴=年齢の中学二年生でしかない。

 女性を喜ばせるための知識も経験もまるで足りない。

 自分は辺見を退屈させて失望させてしまったのではないか……。

 そんな事をウダウダと考える内に、實田はほとんど何も喋らないまま、辺見和華の家の前に到着する。

 辺見が格子の門扉を押し開ける。彼女が振り返って微笑む。

「……じゃあね」

 彼女が玄関の方へ歩き去ってゆく。

 そのとき、實田の喉の奥から言葉がせりあがり口を吐く。

「……まって」

 呼び止めなければ、もう二度と彼女と会えないような気がした。

 緊張や恥ずかしさは、まだあった。

 しかし、折角のチャンスだったのに、何の成果もあがっていない。だから、せめて勇気を振り絞って、別れの言葉を発しようとした。

 その直後だった。

 玄関扉が音を立てて開く。

 その向こうから、身体の大きな強面の男が、ぬっ……と、顔をのぞかせた。

 顔つきは、古い映画のフランケンシュタインのようだと、實田は思った。

 その厳つい怪物が、ぎろりと門の辺りにいた辺見に視線を送り、次に實田を見てから、再び辺見の方を見た。

「……お帰り」

 辺見は玄関に向かって「うん」と短く返事をしたのちに、實田の方を向いて、小声でささやく。

「お兄ちゃん……」

「ああ」

 得心して頷いてはみたものの、實田には辺見と、このフランケンシュタインが血の繋がった兄妹であるなどとは到底信じる事ができなかった。

 辺見の兄が、再び實田に鋭い視線を向ける。

「誰? 彼氏?」

 實田は首を振り、否定の言葉を発しようとした。すると、それより早く辺見が声をあげる。

「違うよ。ただのクラスメイト」

 それを聞いた辺見兄は、もう一度、實田の方を見て、地の底から響き渡るような低い声を発した。

「……あんまり、妹に関わるな」

 何と言葉を返そうか逡巡しゅんじゅんしていると、辺見が悲しそうな顔で言った。

「ごめんなさい……」

 そのまま、彼女は玄関の向こうへと駆け込んでいった。

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