【08】呪いの連鎖
二〇二〇年八月二十九日の十九時過ぎだった。
「……ふへへへ」
パチンコ店の敷地内にある換金所の薄暗い扉の向こうから姿を現したのは、掛け子の戸脇明文であった。
この日は大当たりにつぐ大当たり。連チャンにつぐ連チャンで、出玉の箱を山のように積みあげた。
結果は十万四千五百円のプラス。滅多にない大当たりであった。
そのせいで大量に分泌されたアドレナリンとドーパミンによって、脳が焼きついた彼は、ほどよい酩酊感に身を任せながら、意気揚々と凱旋を果たそうとしていた。
……パチンコで勝った日だけは、惨めな日常を忘れる事ができる。
くだらない自分が世界の王者であるかのように勘違いできた。
今の彼は、間違いなく人生の絶頂にいるといっても過言ではなかった。
……久々に風俗でも行くか。その前に回らない寿司屋で祝杯でもあげるか。
彼の脳内は、未だに冷めやらぬ勝利の余韻で満たされていた。
そのまま、肩で風を切りながら、駐車場に停めてある自分の車へと向かおうとする。
すると、次の瞬間だった。
突然、右手にあった植え込みの陰から何かが目の前に飛び出してくる。
「うおっ!」
と、驚いて戸脇は反射的に飛び退こうとしたが、その前に、彼の鼻柱へとソフトボール大の石片がめり込む。
視界に星が舞い、息苦しさと激痛が、ついさっきまでの上機嫌を粉々に砕いて吹き飛ばした。
「
たまらず、片膝を突いて大量の鮮血が吹き出る鼻先を左手で覆いながら、カーゴパンツの右ポケットに手を入れる。常備してあったバタフライナイフを取り出そうとした。
しかし、その前に頭頂部へと更なる一撃が振りおろされる。
彼の両目はまるでスロットのリールのようにくるりと裏返り、真っ白に染まる。頭から流れ落ちる血の
しかし、それでも彼への殴打が止む事はなかった。
何度も、何度も、
やがて、誰かが通報したのか、パトカーのサイレンの音が聞こえてきた。
その翌日。八月三十日の早朝だった。
呪いの名簿に関する話が一区切りつくと、巣鴨晋平は缶珈琲を飲み干した。
すると、その瞬間、部屋のインターフォンが高らかに鳴り響く。
「新聞の勧誘か?」
「くそ、うぜえ」
松田修二は舌を打ってノロノロと立ちあがった。そして、玄関の方へと向かう。
そして、松田が扉越しに「どちら様!?」と、がなり立てるも返答はなく、再びインターフォンが高らかに鳴り響いた。
「……くっそ。ナメてんのか?」
松田は
「てめえ、うっせえぞ!」
そう怒鳴り散らしながら、ドアの隙間から外を
彼の右眼をバタフライナイフの先端がえぐる。
「あ……が……」
残った左眼を大きく見開いたまま、松田は声にならない
すると、右の
扉の外でバタフライナイフの柄を持っていた何者かが、指先を放した。
すると、玄関の中の松田はゆっくりと仰向けに倒れ、どさり……と音を立てた。そのまま、小刻みな
部屋に残っていた巣鴨晋平は松田の怒鳴り声のあとに、何か重い物が床に落ちたときのような音を耳にして
因みに部屋と玄関へ続く廊下の間には木製の扉があり、巣鴨から玄関の方の様子は解らない。
ともあれ、巣鴨は缶珈琲を飲み干し、サンドウィッチの包装を丸めてゴミ袋に入れるとノートパソコンに向き合って、やらなければならない作業を始めようとした。
すると、扉が開く音がして松田が玄関の方から戻ってきた気配を感じた。
巣鴨はパソコンのモニターから目を離さずに言った。
「……ほんで、誰だった? やっぱ、新聞の勧誘? それともNHKか?」
答えはない。
松田がゆっくりと近づいてくる気配を感じた。特に不審に思わなかった巣鴨は、キーボードを叩きながら、更に言葉を紡いだ。
「……それとも、宗教か? あれな……面倒臭えよな。あいつらガチで頭イッてるから」
ひひひ……と、笑う。
しかし、松田に反応はない。
すぐ隣に立って、巣鴨の事を見おろしている。
流石に不審に思った彼は、松田の方を見あげながら言った。
「おい、どうした? 何か喋れ……」
巣鴨は最後まで言葉を発する事ができなかった。
なぜなら、自分を見おろしていた松田の右目にはバタフライナイフが突き刺さっており、大量の血を流していたからだ。
そうであるにも関わらず、松田は青白い顔色で無表情なまま佇んでいる。まるで映画か何かに出てくるゾンビのようであった。
「……ああああ、おおお前、何なんだよ、それ……」
腰が抜けてしまい、立ちあがれない。
巣鴨はそのまま地を這う虫のように松田から遠ざかろうとする。しかし、すぐに掃き出し窓に掛かったカーテンが、巣鴨の背中に当たった。
その直後、彼は絶叫した。
すると、松田が自らの右目に突き刺さっていたバタフライナイフを抜いた。真っ赤に染まった水晶体がどろりと眼窩から溢れ落ちる。
そこで。なぜか左眼からも大量の鮮血が溢れ始めた。
「やめろ……やめろ……やめろおおおおっ!!」
松田がバタフライナイフを手に、巣鴨へと覆い被さる。
再び絶叫が轟いた。
八月三十日二〇時三十分。
そこは県央にあるマンションの地下駐車場であった。
その薄暗い空間をヘッドライトが切り裂く。枝本廉がハンドルを握る赤いポルシェであった。
彼はたった今、出先から自宅のある、このマンションへと帰ってきたところだった。
誰もいない構内をゆっくりと進み、自分の借りているスペースを目指す途中だった。
唐突に柱の陰から飛び出してきた何者かが、車の前に立ちはだかる。
それは血塗れのスウェットを着た若い男だった。
「何だよ!」
枝本は慌ててブレーキを踏んだ。
鈍い衝撃のあとで、若い男の姿がフロントの下に吸い込まれるように消える。
車が止まり、枝本は「くっそ……!」と悪態を吐いて、運転席を慌てて降りた。
車の前方に周り込んでみると、やはり夢などではなく、スウェット姿の男が倒れていた。
「……おい。おい!」
近寄りながら呼び掛けても返事はない。ぴくりとも動こうとしない。
枝本は舌を打ち、ジャケットの内ポケットから取り出したスマホで救急車を呼ぼうとした。
すると、次の瞬間だった。
枝本は右足首を掴まれた。
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