【12】その幻想をぶち壊す二人
「むっ、敵か……」
硝子の割れる音を聞いた桜井は運転席を飛び出す。
茅野は鞄の中からペッパースプレーを取り出し、後部座席の小学生二人の方を振り向く。
「私が出たら鍵を閉めて、車の中から動かないで」
そう言って返事を待たずに助手席から飛び出す。桜井のあとを追って、松本家の門前へと急いだ。
すると、そこで展開されていた風景は……。
「助けてぇえええ……警察! 警察を呼んでえええ!」
叫びながら母屋の方から駆けてくる松本姫子の母である万里奈。そして、奇声を発しながら、その後を追い駆ける薄汚れた狂女。
そして、その二人に向かって「うおー」と、気の抜けた雄叫びをあげながら悠然と突撃するのは桜井梨沙であった。
茅野循にとっては見慣れた光景である。
「お願い! 警察! この人、おかしいっ!」
万里奈が駆け寄ってくる桜井に向かって、そう叫んだ瞬間だった。彼女は足をもつれさせ、つんのめって転んでしまう。
「あっ……」
そこへ迫る狂女。
「あぁ……助けてぇ……」
息を切らせながら四つん這いになって立ちあがろうとする万里奈。
その右橫を通り抜ける桜井。
「助け……えっ」
絶句して目を丸くする万里奈。流石の狂女もいきなり出現した桜井に困惑して立ち止まる。
刹那、桜井がフィギュアスケーターのように腰を捻りながら踏み切って宙を華麗に舞った。
遠心力に乗った強烈な旋風脚であった。
片膝を突いて、見事な着地を決める桜井。
狂女はまるで電池切れのロボットのように脱力し、首を右側に傾がせたまま地面に倒れた。
「何……これ……」
万里奈はどうリアクションしたらよいのか解らず立ち尽くすしかなかった。
そんな彼女に茅野は歩み寄る。
「大丈夫よ。警察は呼んだわ」
「あ、ハイ」
と、万里奈が返事をした瞬間だった。
「キエエエエエエ……」と、狂女が地面にひっくり返った蝉のように叫び始めた。
「びっくりした……」と言って、桜井が狂女に歩み寄る。
「これは、センセの言ってた悪霊に憑かれてる人なのかな……?」
「そうかもしれないわね」
と、茅野が答えると、桜井は万里奈にとって意味の解らない事を言う。
「……
「は? 何を……」
その疑問に答える事なく、桜井は狂女の腹に目掛けて正拳突きを叩きおろす。
どふぅ……と、音がして、一瞬だけ狂女の動きが止まる。しかし……。
「キエエエエエエ……」
再び叫んで寝転がったまま、唾だか胃液だかを吐き散らしながら暴れ始める。
桜井は眉をハの字にして、しょんぼりと己の拳を見つめて呟く。
「何か、違ったかも……」
「違ったって……」
そもそも、何が正解か解らない松本万里奈であった。
すると、遠くからサイレンの音が近づいてきた。
それから、松本宅に所轄署のパトカーがやって来たのは数分後の事だった。狂女は無事に駆けつけた警官たちに捕縛される。
松本姫子は母親の無事を喜び、その様子を楪が見守る。
しかし、二人の女子高生は銀のミラジーノごと現場から姿を消していた。
すでに遠くの空は朱色に染まりかけていた。
その田園を割った一本道の先に横たわる丘の
桜井と茅野は車を降りて、その丘の斜面に横たわった石段の先に建つ家を見あげた。
「ここか……」
「まだまだ私たちの知らないスポットが、たくさんあるものね」
二人は石段を登り、門前に辿り着く。そして、茅野がデジタル一眼カメラの撮影準備を終えると、白い煉瓦の小道を渡って玄関ポーチを目指した。
「……で、けっきょく、あの心霊写真は何だったんだろうね。センセは、単なる壁の染みだとか言ってたけど、冷蔵庫は何で移動していたのかな?」
「それについては、ぼんやりとだけど想像はついているわ」
「お、だいたい解った感じ?」
「そうね」
桜井が玄関の扉を開ける。二人は扉口を潜り抜けて玄関ホールへと入った。茅野が解説を始める。
「……まず、そもそも、冷蔵庫というか、あの階段と壁の隙間に置かれた荷物は、置き方がおかしいのよ」
「と、言うと?」
二人は玄関ホールを横切り、階段の右側の荷物が置かれた隙間の前に立つ。
家電や段ボールが二列になって詰め込まれており、最奥には冷蔵庫が一つだけ置かれていた。
冷蔵庫の位置は右寄りになっており、顔らしき染みが浮き出ていた壁は隠れていた。
茅野はその冷蔵庫を指差しながら言う。
「見て。梨沙さん。こういう、奥が行き止まりの隙間に物を片付ける場合、奥から順番に置くわよね? 奥から手前に向けて荷物を詰める。それが普通よね?」
「まあ、そうだね」
「
「ああ……」
桜井は得心した様子で声をあげた。
奥から荷物を二列にして置いていった場合、最終的に左右の荷物の数が合わなかったとき、隣が空くのは普通だったらもっとも手前になるはずである。
「……という事は、最初から何かの意図があって冷蔵庫の隣のスペースが空くように荷物を並べたという事になる」
「それは、なぜ……」
「もちろん、冷蔵庫を左右に移動させるためよ。そのために冷蔵庫の隣のスペースを空ける必要があった」
そう言って、茅野は右側の列の先頭に置かれた段ボールの表面を人差し指で撫でる。
その指先には
「見て。梨沙さん……こっちの段ボールには埃が積もっているけど、隣のテレビの上には……」
と言って、左の列の先頭に置かれた古めかしくもごついブラウン管テレビの上を指差す。
「……埃が不自然なほど積もっていない」
「本当だ」
と、桜井がテレビの上に視線を落とす。
どうやら、宮野颯天は荷物の上に足跡がない事には気がつけたが、テレビの上の埃がない事には気がつけなかったようだ。
「多分、この家の住人は、荷物の上を辿って、この隙間の奥へと出入りしていたんだと思うわ。足跡はわざわざ拭いたりして消していた」
「そこまでして、どうして冷蔵庫なんか……」
「きっと、大切な何かを冷蔵庫で隠したかったのでしょうね」
「なるほど」
桜井がテレビの上にあがる。
「ちょっと、奥まで行って確かめて来るよ」
「気をつけて」
その茅野の言葉を背中で受けて桜井は荷物を伝いながら最奥へと向かう。すると、冷蔵庫の手前に置かれた荷物の上で桜井が叫んだ。
「循!」
「何かしら?」
「この冷蔵庫、台車に乗せてあるよ」
そのお陰で、少し力は必要だが一つ手前の荷物の上から冷蔵庫を台車ごと動かす事ができそうだった。
「それじゃあ、梨沙さん、お願い……」
「らじゃー」
桜井が一つ手前の荷物の上から台車の取っ手を掴んで冷蔵庫を動かした。すると……。
「循!」
「何?」
「地下へ降りる入り口があった」
冷蔵庫の下になっていた床には、木の梯子が掛かった四角い縦穴が空いている。
そして、隠れていた冷蔵庫の裏の壁には、人の顔に見えなくはない染みが浮かんでいた。
茅野も荷物の上を伝い桜井のあとを追った。
そして、二人はカメラとスマホのライトを光源にして地下への梯子を降りる。
「たぶん、楪さんたちが最初にこの家を訪れたときは、冷蔵庫が左寄りにあった……つまり、地下室への入り口は開いていたっていう事になるわね」
「つまり、そのとき、地下室の中には誰かがいたっていう事か……」
そんな会話をしながら地下室に降り立つ二人だった。すると、桜井が漂う悪臭に顔をしかめる。
「くっさ……」
「いよいよ、本格的にやばくなってきたわね」
茅野は嬉しそうにほくそ笑みながら、カメラのライトで室内を見渡した。
すると、そこは八畳程度の広さで、中央に四角いダイニングテーブルがあった。
椅子は四脚あり、黒い汁がこびりついた食器類がいくつか置かれていた。
そのテーブルから向かって左の壁際には段ボールが積みあげられており、そこにはカセットコンロとキッチンラックが置いてある。コンロには小さな丸鍋が置いてあった。
そして、テーブルの左には錆びついたスチール棚があり、埃や蜘蛛の巣にまみれた
「うわっ……キモ……」
桜井がコンロの鍋を
「あのヤバいおばさん、ここで暮らしていたのかな……?」
「そうかもしれないわね」
と、茅野が答えた瞬間だった。
突然、二人の目の前に光が差す――。
それは幸せな未来の風景。
この家のリビングに集う家族たち。
廃墟などではなく、綺麗に片付いており、お洒落でラグジュアリーな調度類に彩られている。
青々とした芝生の庭を臨める掃き出し窓からは、
そして、そのリビングと仕切り棚で隔てられたキッチンでは、可愛らしいエプロンを着けた桜井がフライパンを振るっていた。
茅野は色味豊かなサラダが綺麗に盛りつけられた大皿を、家族の待つリビングの方へと運ぶ。
お互いの子供や伴侶らしき人物の顔は、逆光でよく見えなかった。
しかし、全員が幸せそうに笑っている事は理解できた。何かの記念日なのか……それとも、よくある休日の風景なのか……。
ともあれ、茅野も柔らかな微笑みを浮かべながら、リビングのローテーブルに皿を置いた。
すると、その光景を見ていた二人の胸に日だまりの中にいるかのような温かさと、この家に住めば、こんな日常が待ち受けているという確信がみるみるうちに込みあげていく――
「0点」
しかし、その幻想を桜井がばっさりと切り捨てる。
「私はジェンダー云々を言うつもりはないけど、こういう幸せな家庭を築くのが全女性の夢とか、いつの時代の価値観なのよ……」
茅野は心底どん引きした様子だった。
二人の駄目出しは更に続く。
「否定はしないよ? 否定はしない。でも違うんだよなあ。あたしたちが求めているのは……。スペクタクルが圧倒的に足りない」
「いや、本当ね。センスがないにもほどがあるわ」
「修繕してまで住む訳ないでしょ。いくら掛かると思ってるのさ」
「むしろ、廃墟の方がいいわね。スポット的に」
いつの間にか、二人の目の前に繰り広げられていた幻想は消えていた。
「……帰ろっか」
桜井が梯子を登り始める。
「何かしらけたわね……」
茅野も後に続いた。
……こうして、その家には誰もいなくなった。
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