【11】チェイス


 その日、松本万里奈まつもとまりなは昼食を取ったあと、娘の姫子を送り出してから洗い物を済ませた。

 それから、台所の隣にある居間で、友人たちとメッセージアプリでやり取りをしながら一息吐いた。

 万里奈は二年前、彼女にとっての義理の父親が病に臥せり、その介護のために夫の実家へと越してきた。

 正直にいって、住み慣れた土地を離れるのは気が進まなかった。

 しかし、現在の夫である大樹に強く説得されたのと、彼との結婚の際に子持ちである自分を快く受け入れてくれた義理の両親には恩義を感じていた事も大きかった。

 特に姑からは、ときおり不思議に思えるくらいよくしてもらっていたので、単純に一人で義父の介護に当たらなければならない彼女の事が心配だったというのもあった。

 そして、夫がこちらの県で条件の良い転職先を見つけてくるなど、様々な要因から引っ越しを決意した訳であるが、覚悟していたほどの苦労は特になかったというのが率直な感想であった。

 転職により夫の稼ぎは増えた上、家賃が掛からなくなったので、わずかではあるが金銭的な余裕ができた。

 前の土地にいた頃は、引っ込み思案でいつも独りだった娘の姫子も、よい友人関係を築けているらしい。

 特に最近は戸田楪という女の子と仲がよいらしく、毎日が楽しそうだった。この日も娘はくだんの楪ちゃんと一緒に夏休みの宿題をやるらしい。

 そして、問題の義父の介護も思ったより苦はなかった。

 ほとんど姑が率先して行ってくれているため、手伝う事といったら、義父の身体を動かすなどの力のいる作業のときと、食事の用意や洗濯ぐらいのものだった。

 この日も義父は姑に付き添われ、車椅子に乗って朝からデイケアセンターの世話になっていた。こういった日は、けっこう時間に余裕を持てる。

 まったく苦労がないかといえば、そうではない。やはり、大人一人の面倒を見るというのは甘いものではない。

 しかし、この程度ならば想定以下の労力というのが率直な気持ちであった。

 そんな訳で、万里奈は小一時間ほどぼんやりとスマホを弄り、残りの家事に取り掛かる。

 それから少しだけ早めに近くのスーパーへと買い出しに向かった。

 それから家に戻り、買ったものを台所の冷蔵庫に仕舞っているときだった。微かなその音が聞こえた。


 ……きぃー、きぃー。


 それは、錆びついた自転車のペダルを漕ぐ音であった。門前の通りの向こうからどんどん近づいて来る。そして、その音は遠ざかる事なくぴたりと止んだ。

 誰か来客だろうか……しかし、あんな錆びついたペダルの音色をこれまでに聞いた事は一度もない。少なくとも近所に住む付き合いのある誰かではない気がした。

 訝しげに首を捻っていると、玄関の方でがしゃりと音がした。こちらも酷く錆びついてはいたが、万里奈はすぐに自転車のスタンドを立てたときの音だと察する。

 台所を出るとすぐに玄関へと向かった。

 引き戸の磨り硝子越しには人気ひとけはなかった。しかし、万里奈は三和土たたきに降りてサンダルを突っ掛け、引き戸を開いた。

 すると、ポーチの入り口の前に、ぼろぼろになった自転車がぽつんと停めてある。

 籠はひしゃげ、タイヤの空気は抜けかけており、全体は赤錆にまみれていた。

 それは、瓦落多がらくた同然の壊れかけだった。

「……何なの、いったい」

 万里奈は言い様のない禍々しさを感じて顔をしかめる。

 誰かの悪戯……嫌がらせ……不法投棄だろうか。何にせよ、薄気味悪い。

 万里奈は自転車をポーチの横の邪魔にならない場所に寄せて、再び台所へと戻った。

 そして、台所の入り口に掛かった暖簾のれんを潜り抜けたあとだった。万里奈の視界の隅に、ふと勝手口の扉が引っ掛かる。

 わずかに閉まり切っていない。

 古い家なので建てつけが悪く、鍵も掛けられなくなっていた。おまけに扉を閉めたつもりでも、力を入れないと半開きのままになってしまう事がよくあった。

 そして、この状態になるには、扉をいったん開けてから閉めようとしなくてならない。完全に閉めきったあとで、自然と半開きになったりはしないのだ。

 つまり・・・自分が台所を・・・・・・離れたあとで・・・・・・誰かが勝手口の扉・・・・・・・・を開けたという事・・・・・・・・になる・・・

 万里奈は恐る恐る勝手口のほうへと歩みより、扉を閉めようとする。

 すると、次の瞬間、左手の棚の影から何者かが飛び出してきた。

「きゃっ……」

 と、万里奈はかすれた悲鳴をあげて身をかわす。

 どたん……と、大きな音が鳴り響き、飛び掛かってきた何者かは足をもつれさせて膝を突いた。同時に逆手で握られていた赤錆まみれの包丁の切っ先が床に突き刺さる。

「あ、あなた……いったい、誰なの……」

 それは薄汚い女であった。

 ぼろぼろになった花柄のワンピースと黄色や黒の汁で汚れたエプロン。

 脂でべとついた長髪に、枯れ木のようにやせほそった四肢。

 女は床に刺さった包丁を抜いて立ちあがる。そして、歯垢にまみれた歯を唇からのぞかせて笑う。

「……ひいっ」

 万里奈は口元を両手で押さえ、瞳をいっぱいに見開きながら後退りする。

 その女の瞳は、まるで腐った鼠のように曇っていた。どう考えても話が通じるような相手ではなさそうだった。

 押し込み強盗などではない。もっと禍々しい何か……。

 万里奈は大きく息を吸い込んで悲鳴をあげた。

 その女に背を向けて逃げ出す。玄関方向へ伸びる廊下へと駆けた。

 しかし、女は居間の方から台所を出ると素早く玄関へと周り込む。まるで、この家の間取りを熟知しているかのような立ち回りに、万里奈は驚愕きょうがくする。

 女が錆びた包丁を振りあげて襲い掛かってきた。万里奈はきびすを返し、玄関から遠ざかる。

 こうして、命を懸けた鬼ごっこが幕を開けたのだった。

 



 けっきょく、パニックにおちいった万里奈は家中を逃げ回り、最終的に二階のトイレへと追い込まれてしまった。

 扉を閉めて鍵を急いでかけたが、ざく……ざく……と、狂女は戸板を包丁で穿うがち始めた。

 一定のリズムで戸板から突き出ては引っ込む包丁の先端を見て、万里奈は盛大な悲鳴をあげた。

 このままでは、そう遠くないうちに扉は破壊されてしまう。

 そう思った矢先、ぱきり……と、音がして扉板から突き出た包丁が突き刺さったまま動かなくなった。

 どうやら、錆びついてもろくなっていた包丁が折れてしまったらしい。

「ウギャアアアアア……」

 と、けたたましい叫び声が聞こえ、扉が激しく揺れた。どうやら、外から蹴りつけているらしい。

 しばらく、その状態が続き、何の前触れもなく静まり返る。

 このトイレの換気用の窓は小さく、そこから外に出る事は叶わない。

 万里奈は便器に座り項垂れる。

 

 ……こうして、しばしの間、膠着こうちゃく状態じょうたいとなった。




 それからの時間は松本万里奈に取って永遠に近い長さに感じられた。便器に座ったまま頭を抱え、ときが過ぎるのを待つ。

 彼女が考えていたのは、自分よりも家族の事だった。もしも、今の状況で誰かが家に帰って来たら……。

 もっとも家に早く帰ってくる可能性が高いのは、デイケアセンターへと向かった義理の両親たちだろう。

 もしかしたら、姫子の方が早いかもしれない。なんにせよ、最悪だった。

 何とか現状を打破しなくてはならない。

 しかし、窓から大声で叫んだところで裏手は田圃だし、両隣の住人は共に耳の遠い年配の老人夫婦である。

 そもそも、これまでの騒ぎで誰かがこの家の異変に気がついていたとしたら、すでに警察がやって来ているはずである。未だに何の音沙汰もないという事は、家の外にいる第三者に声や物音で助けを求めるのは絶望的という事だ。自力で何とかする以外にない。 

 万里奈は静かに腰をあげて、扉板の裂け目から外の様子をうかがう。

 すると、女はまだ扉の外にいた。じっと立ち尽くす彼女の胸元が裂け目の向こうに見えた。マネキンのように微動だにしていない。何とも狂気染みている。

 そこで、万里奈は少しだけ冷静になった。

 凶器の出刃包丁は折れてしまっている。そもそも、錆びついており尖った切っ先さえなければ、そこまでの殺傷能力はないのではないか……。

 目をつむり、息を鼻から吸い込んで、震える唇からゆっくりと押し出す。

 扉の外の女に気がつかれぬように、ドアノブをそっと握った。

 覚悟を決めて、扉を一気に開ける。

 すると、外開きの扉板の表面が女に衝突した。

「ぐえっ……」

 と、短く低い悲鳴をあげ、女は廊下に尻餅を突いて壁に後頭部を打ちつける。

 万里奈は急いで便所を出ると、一階への階段に向かって一目散に駆ける。

 女も苦痛と怒りに顔を歪ませて立ちあがり、折れた包丁を手にしたまま万里奈を追う。

 万里奈は階段を降りると、廊下の先にある玄関を目指した。引き戸を開けて後ろを振り向くと、女が折れた包丁を投げつけるところだった。

 万里奈は急いでポーチに出ると、引き戸を閉めた。引き戸に包丁が当たり、磨り硝子が割れる。

 ポーチを飛び出し、裸足で門の外を目指す。背後で引き戸が開き、女が玄関の中から姿を現した。

 万里奈があらん限りの声で叫ぶ。

「たっ、助けてええええー!!」

 すると、次の瞬間だった。


「呼んだ?」


 それは極めて呑気な調子の声だった。

 そして、門の向こうから姿を現したのは癖のある栗色の髪をポニーテールにした一人の少女であった。

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