【10】母親と父親


 桜井と茅野が戸田宅にいる頃、篠原刑事は県央の市街地に所在する老人介護施設を訪問中であった。

 この場所に旧姓古寺美袋こと高橋美袋の母、高橋初江たかはしはつえが入院しているのだという。

 高橋美袋は離婚したあと、しばらくはあの螺木町の家で暮らしていたようだが、その荒んだ暮らし振りを見かねた母とその知人によって、県央にある実家へと強引に連れ戻されたらしい。

 これが二〇一六年の事で、元夫の大樹が再婚する直前という時期だったのだという。

 そういった訳で、篠原は美袋に会うために、県央にある彼女の実家へと足を運んだ。すると、その実家も閉め切られており、人の住んでいる気配はみられなかった。

 そこで近隣の住民に聞き込みを行ったところ、去年の秋頃に初江が痴呆症を患い、くだんの施設へと入院した事を知った。因みに高橋美袋の消息は、母の入院と前後して途絶えている。

 そんな訳で、入り口の受付で身分を明かし、検温を行って、消毒スプレーで手を殺菌する。それから職員に案内され、高橋初江の部屋へと向かった。

 施設内は空調がほどよく調えられており、陽当たりもよかった。

 案内役の職員によれば“調子のよいときなら会話に応じる事もあるらしいが、あまり期待はしない方がよい”との事だった。

「……こちらです」

 と、長い廊下の先にあった部屋の前で立ち止まり、職員がノックのあとで引き戸を押し開ける。

「初江さん、お客さんだよ」

 すると、窓際のベッドで上半身を起こしていた老婆が顔の向きを変えて、緑内障気味の瞳を瞬せた。

 篠原は一礼してベッドの脇に歩み寄る。

「高橋初江さんですよね?」

 反応はない。

 もう一度、大きな声で語り掛ける。

「高橋初江さんですよね!?」

 すると、老婆はひび割れた唇を震えさせ「うー……そうです」と言った。

 それを見た職員はにっこりと微笑んで「初江さん、今日は調子いいみたいです」と言った。それを聞いて、ほっとする篠原。

 さっそく本題を切り出す事にした。耳元でゆっくりと焦らずに大きな声で話し掛ける。

「それで、初江さん」

「うー……」

「娘さんの」

「う……」

「美袋さんの事について」

「うぅ……」

「聞きたいのですけど」

「みなぎ……」

「娘さんは今」

「みなぎぃ……」

「どこにいるんですか?」

 すると、初江は肩を震わせながらうつ向き黙り込む。職員が心配そうに、彼女の肩に手を置いて顔をのぞき込んだ。

 その直後だった。

 初江はしわがれた細い喉をいっぱいに反らせて天井を見あげ、唐突に金切り声を張りあげた。

「あ、あ、あ、あ……み……な……ぎ……ぃいい……」

 そして、肩に置かれた職員の手を払い落として、ベッド脇の篠原へと飛びつくように掴み掛かる。

「……みなぎぃ……は……あのいえ……に……つれ……もどされ……た……」

「は?」

 目を丸くする篠原。

「ほーら、初江さん。落ち着いて……ベッドに寝てください」

 初江は職員によって引き剥がされて、ベッドに寝かしつけられる。

 何やら言葉にならない呻き声をあげながら、天井の一点を見つめたまま荒い息を吐いていた。

「……ちょっと、もう無理みたいです。ご遠慮願えませんでしょうか?」

 そう言われ、慌てた様子で首肯する篠原。あとは職員に任せて退室する。

 そうして、施設の玄関へと向かいながら、篠原は初江の発した言葉を思い出す。


 『美袋はあの家に連れ戻された』


 あの家とは、例の螺木町の家の事だろうか。しかし、あそこに高橋美袋の姿はなかった。

 そもそも人が住んでいる様子がまったく見られなかったし、家の中をぐるりと回ったが誰もいなかった。あの肝試しに訪れていた小学生三人以外は……。

 そして、施設の玄関を出たあと、彼女は桜井梨沙からの着信に気がついて折り返しの電話を掛けた。




 その少し前だった。

 桜井と茅野は、楪と松本を連れて戸田邸をあとにした。銀のミラジーノに乗り込み、松本宅へと向かう。

 あの窓についた手形を、直接見に行こうというのだ。

 十分程度で古びた農村特有の広々とした家の前に辿り着く。門の横の榊の生け垣に寄せて車を停めた。

 そして、降車しようとしたところで、桜井の首に吊るされたスマホに着信があった。篠原である。

 桜井はすぐに電話に出るとスピーカーにし、相手が何かを言う前に機先を制する。

「あ、刑事さん。例の螺木町の空き家の件なんだけど……」

 絶句した様子の篠原。

 やや間を置いて、恐怖と戸惑いに満ちた声が車内に響き渡る。

『いや、何であの家の件にあなたたちが関わっているのよ……怖いんだけど……』

 どん引きである。

 どうやら今回の件にまで、桜井と茅野が絡んでいるとは想像もしていなかったようだ。そんな篠原に対して桜井は鹿爪らしい調子でのたまう。

「この県で起こる心霊案件には、だいたい、あたしたちが絡んでいると思って間違いないから」 

 その言葉を聞いた後部座席の松本が「すごい……」と小声で言い、隣の楪の顔を見た。楪は「でしょ?」と、なぜか誇らしげに胸を張る。

 ともあれ、篠原はうんざりした様子で疑問を投げ掛けてきた。

『まさか、あの家に行って、また余計な事をしてきたんじゃないでしょうね?』

まだ・・、行ってないわ」と、助手席の茅野が言った。

 事実である。

 しかし、日頃の行いが行いなので篠原は取り合わなかった。

『そういう嘘はいいから。で、あの家についての話って何なの?』

 その質問に桜井が答える。

「実は、あの家に行ったのは、私たちじゃなくて知り合いの女の子たちなんだけど……」

 と、前置きをして、一連の経緯を簡潔に語り始めた。




『ちょっと、あんたらねえ……』

「何さ?」

『小学生にしっかり悪影響を与えているんじゃないわよ……』

「それについては、割と真面目に反省しているわ」

 と、茅野が珍しく殊勝な言葉を述べた。すると、篠原は大きな溜め息を吐いて質問を切り出してきた。

『じゃあ、そっちに警官を寄越すから、その小学生の家の住所を教えてくれない?』

「だ、そうよ」

 茅野が振り向いて松本を促した。

 松本はそらんじていた自らの住所を口にする。すると……。

『ねえ、その住所……』

 篠原がいぶかしげな声をあげた。

「どうかしたのかしら?」と茅野が尋ねると、篠原は次の問いを発した。

『ねえ。その小学生って、松本さん?』

「ん……あ、そうだけど」

 と、桜井は篠原の奇妙なリアクションに首を捻り、茅野と顔を見合わせる。

 篠原が質問を続ける。

『松本さんのお父さんの名前は?』

 この質問に松本姫子が答えを述べた。

松本大樹ですけど・・・・・・・・……』

 その瞬間だった。

 生け垣の向こうから、がしゃん……という大きな破壊音が鳴り響いた。

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