【09】悪魔の棲む家


 薄暗がりの中、しわがれた右手が、カセットコンロのツマミを捻った。

「さあ。もうちょっとで、できますからね……」

 コンロの上にあるのは焦げ痕がこびりついた鍋だった。その中身は生臭い臭いを放つコールタールのような液体で満たされている。

「……ちょっと! 美知……また携帯ばっかり見て! 食事のときぐらい、やめなさい!」

 ヒステリックな声が鳴り響き……。

「美知! いい加減にしないと怒るわよ!」

 返事はない。

 そして、ばすん……という音が響き渡る。薄暗がりに白い埃が舞い散った。

「もう……ちょっと、アナタ、新聞ばっかり見てないで……」

 やはり、返事はない。

 しかし、その女は気にした様子もなく、蝿の羽音だけが響き渡る食卓に向かって語りかける。

「ほら、敬士。また寝癖がついてる……もう、誰かさんに似てずぼらなんだからぁっ……」

 やはり、返事はない。

 鍋がグツグツと煮えたぎり、悪臭が周囲の空気を犯す。

 やがて、その黒々とした生臭い液体がお玉に掬われ、順番にスープ皿へと注がれてゆく。

 スープ皿は油でギトギトになったお盆に乗せられ、そのまま食卓へと運ばれる。

 皿が置かれると、テーブルの上の蝿が飛び立ち、忙しなく渦を巻き始める。

「……さあ、お昼ご飯、みんなで食べましょう」

 次の瞬間だった。


「いや。まだだ」


 それは、まるで地獄の底から鳴り響くかのような、ぐもった低い声音だった。

「何? アナタ」

「……あの娘・・・がいない・・・・

「あの……娘……?」

「そうだ」

「ああ……」

 ぽん、と両手が打ちならされた。

「確かに、あの娘がアナタの娘なら、私の家族っていう事になるわよねえ……いひひひ」

「そうだ。連れて来い」

「そうね。そうよね。家族団欒がやっぱり幸せだもの……ひひひひ……解ったわ。大樹くん」

 その不気味な女の笑い声は、蝿の羽音と共にいつまでも地下室に響き渡り続けた。




「……お、反応ありか」

 桜井が例の心霊写真を九尾の元に送ると、すぐに折り返しの電話があった。

 桜井は電話ボタンを押すと、スピーカーにしてスマホを座卓の上に置いた。

『ちょっと、何なのよ! また、おかしな場所に行って!』

 開口一番にぷりぷりと怒り始める九尾。楪と松本は不安げに眉をひそめ、桜井と茅野は何とも言えない表情で視線を合わせた。

「センセ、あたしたち、まだ、このスポットに行ってないんだけど……」

 事実である。しかし、日頃の行いが行いだけに九尾は、その言い分を聞き入れようとしなかった。

『そんな嘘は、どうでもいいから……兎も角、二人とも無事なのね?』

「ええ。まだ、私たち・・・には・・なにも、おこってないわ」

 と、茅野。

 九尾は『私たちには・・・・・……?』と、その含みのある言葉をいぶかしんだが、茅野は取り合わずに質問を続けた。

「……それで、この心霊写真は本物という事でいいのかしら?」

『心霊写真?』

 桜井が補足する。

「この奥の冷蔵庫の隣に浮き出た壁の染みだよ。人の顔っぽいのが見えるでしょ?」

『ああ、それは単なる壁の染みよ。そんな事より、この建物全体が、かなりヤバい。相当、危険な悪霊が取り憑いてる』

 その言葉を聞いた楪と松本の顔面が一気に青ざめる。

『……これ、他所・・から呼び出された物よ。微かに術の気配が残ってる』

 と、言ってから、九尾は深々と嘆息する。

『それにしても、こんな凄いのを呼び出して、どうするつもりだったのかしら? 並の術者じゃ使役できないと思うけど』

 その口調には焦りの色が滲んでいたが、桜井と茅野の口角は明らかに緩んでいた。

「それは大変だねえ……」

「怖いわ。悪霊だなんて」

 その棒読みの言葉を聞いた九尾は呆れた様子で声を張りあげた。

『いや、ちょっと、やめてよ? この場所は下手に突っつき回さない方がいいわ。幸い悪霊は相性のいい誰かに憑依しないと、この土地に縛られて離れられないみたいだから』

「それなら、安心だけどさあ」

 桜井が不安げな様子で身を寄せ合う楪と松本に視線を向けて言う。

「……もう、この家に行っちゃった子たちがいるんだよね」

『それって、どういう事なの?』

 九尾は神妙な調子で聞き返す。

 すると、茅野が「実は……」と言って、一連の事情を話し始めた。




 話を聞き終わると、九尾は冷静に情報を吟味したあとで己の見解を語り始めた。

『その子の家の窓についていた手形の事を考えると、霊はもう誰かに憑依して家の外を自由に出歩いている可能性が高いわ』

「じゃあ、何で姫子ちゃんを?」

 その桜井の質問に九尾が答えを返す。

『たぶんだけど、今の憑代よりしろよりも、その女の子の方が、良い・・んじゃないかしら?』

「良い……」と桜井は、難しい表情で思案したあと、かっ……と、両目を見開いた。

「解った! その悪霊、ロリコンか!」

「……で、どういう事なのかしら」

 と、茅野が桜井をスルーして九尾を促した。九尾も話を先に進める事にしたようだ。

『この手の悪霊は、人間の欲望を上手く煽って取り憑き、本人や周囲の者を不幸のどん底に突き落とす。そのときの絶望や恐怖を糧にするものなの。たぶん、今の憑代からは、そう多くの糧を得る事が難しくなっているんだと思う』

「つまり、不幸のどん底に落とし過ぎて出涸らしになっているという事か……」

 その桜井の言葉に『そうよ』と、九尾が肯定的な相づちを打つ。

 そして、茅野が言葉を続ける。

「それで、肝試しに行った三人で、もっとも相性の良かった松本さんに狙いを定めたという訳なのね」

『ええ。相性……もしくは、その子に何か他の繋がり・・・・・がある可能性もあるわね。ちょっと、電話越しじゃ解らないけど』

 松本が今にも泣きそうな顔で声をあげた。

「私は、どうすればいいんですかぁ……」

『梨沙ちゃん、循ちゃん……“そっちの担当官”の人の連絡先は教えてもらってるのよね?』

 “そっちの担当官”とは、県警警備一課の篠原刑事の事である。

「ええ。取り敢えず、彼女に電話するつもりだけれど……」

『それなら、早急に“狐狩り”に連絡を取るように言って。この悪霊、すぐに祓わないと不味いわ』

「解ったわ」

『……それから、その家には絶対に行か』

 そこで桜井が通話終了ボタンを押した。

「それじゃあ、刑事さんにかけてみるよ」

 そう言って、桜井は篠原に電話をかける。

 しかし、彼女が電話に出る事はなかった。




 ちょうど、その頃だった。

 かつての古寺美袋……高橋たかはし美袋は自転車で住宅街の路地を進んでいた。

 沿道には農村特有の大きな古い家々が建ち並び、往来に人の姿はほとんどない。

 彼女の自転車は全体が錆ついており、前輪と後輪のスポークが微妙に曲がっていた。

 タイヤの空気は抜けかけており、チェーンは赤茶色けていた。

 そのため一漕ひとこぎするごとに、悲鳴のような酷い音が鳴った。

 そして、ぼろぼろになってひしゃげた籠の中には、新聞紙にくるまった出刃包丁が無造作に投げ入れられていた。

「ぎひひひひ……」

 歯垢にまみれた黄色い歯を見せてほくそ笑む彼女の視線の先には左の沿道に門を構える古びた一軒家が映り込んでいる。

 それは、かつての夫の実家である古寺家であった。

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