【08】不幸の責任

 

 美袋への愛情が冷めた日の事を大樹は今でもよく覚えていた。

 その日、仕事から帰り玄関の扉を開けると、食器の割れる音と金切り声が聞こえてきた。

 ぎょっとして立ち尽くしていると、車椅子に乗った美知が泣きそうな顔でやって来る。

「お父さん……お母さんが……」

 大樹は弾かれたように、破壊音が鳴り響き続けるリビングの方へと急いだ。

 すると美袋が髪を振り乱し、叫び声をあげながら大切にしていたはずのウェッジウッドのポットをテレビに向かって投げたところであった。

 けたたましい音を立てて砕け散った陶器の破片が撒き散らされ、美知と大樹は顔をしかめた。

 次の瞬間に美袋が絶叫する。

「アアアアアアアア……どうしてぇええええ……」

 美袋が癇癪を起こす事はよくあったが、この日はいつに増して酷いようだ。

「落ち着け!!」

 と、大樹も声を張りあげ、美袋の元に歩み寄り両肩を押さえつけた。

「しっかりしろ!」

「あああアアアア……」

 美袋は頭を振り乱しながら天井を見あげて獣のように叫ぶ。

 リビングの入り口で美知が「もうやめて……」と、すすり泣き始めた。

 本来ならば家族団欒かぞくだんらんの場となるはずのリビングは、地獄の様相をていしていた。

 薄暗く、荒れ果て、嘆きと絶叫に満ちていた。

「アアアアアアアア……何で、何で、何で……」

 美袋は唾を飛ばし真っ赤な顔でわめきながら、大樹の事を突き飛ばした。

 彼はよろめき尻餅を突く。すぐに視線をあげると、美袋が般若はんにゃのような形相で荒い息を吐いていた。

「ふーっ、ふーっ……」

「美袋……美袋ぃ……」

 ここ数年ですっかり変わり果ててしまった愛する妻を見あげながら、涙を流す大樹。

 美袋はいったん美知の方を見てから、がなり立てる。

「アンタら、どうして、幸せになってくれないのよッ!」

「は……?」

 大樹は震える唇から間の抜けた声を出した。美袋は更に続ける。

「私の思った通りに……私のために、幸せになってよ! どうして、アナタたちは、私の言う事を聞いてくれないのぉお……」

 そう言ったあとで膝を折り泣き崩れる。

 そんな妻の姿を目の当たりにした大樹は大きく失望していた。

 美知の身体が不自由になったのも、敬士が部屋から出て来なくなってしまったのも、幸せになりたくなかったから、そうなった訳ではない。望んでいた訳ではない。

 それなのにまるで、本人たちの責任であるかのような酷い言い種。

 “私のために幸せになってよ”

 このときの大樹には、その発言が恐ろしく身勝手なものであるかのように感じられた。

 今までは、こういう事・・・・・があっても“妻は少し病んでいるだけなのだ”と、ずっと我慢してきた。

 しかし、思い返せば妻は、こうなる前からずっと身勝手であった。そもそも、この家を勝手に購入したときもそうだった。

 そして、すべてがおかしくなり始めたのは、この家に住むようになってからだ。

 これまで大樹は、一家の主として不幸の影に飲まれてゆく家族をどうにかしようと、自分なりに考えてきたつもりだったが、その気持ちが潰えるのを明確に意識したのだった。




「……そんな時期に仕事先で出会った今の妻に惹かれてしまいまして……」

 大樹は篠原に向かって申し訳なさそうに語る。

「……彼女も彼女で旦那を亡くしたばかりで、これからの生活に不安を感じていたらしくて……あ、誤解がないように言っておきますが、今の妻と関係を持ったのは離婚したあとですよ? そういう雰囲気になりかけた事は、正直ありますけど。それどころじゃなかったので。色々と」

「なるほど」と篠原は相づちを打ち、グラスの中のアイス珈琲に口をつける。そのあと質問を続けた。

「では、その前妻の美袋さんとのお子さんは今は……」

「ああ。離婚してすぐに敬士はネットで知り合った仲間と一緒に海外へ。今は人道支援団体の一員として発展途上国を回っていますよ。滅多に日本には帰って来ませんが、たまに連絡を寄越します。今はこんなご時世なんで、かなり大変みたいですが、何もせずに部屋に閉じ籠っていたときと比べると、見違えたようです」

「では、美知さんは……?」

「美知は良縁に恵まれましてね。去年の年始に結婚して今は県外にいます。あいつは、私の再婚には、かなり反対していましたが……まあ、今の関係は、それなりに良好ですよ。初孫がお腹の中にいましてね……」

 と、言って照れ臭そうに笑う大樹。

「……何か、あの家を出たあと、急に何もかもが上手く回り始めましてね。本当に全部、あの家のせいだったんじゃないかって」

 そのときの彼の口調は半ば冗談めかしたものだったのだが、篠原にはいっさい笑えなかった。

「では、美袋さんは、今……」

「解りません」

 笑顔をひそめ、ぴしゃりと答える大樹。

「怖くて……会いたくありません。だって、離婚を切り出したときも“離婚するのは構わないけど、あの家は欲しい”って真っ先に食いついてきたんですよ? あのときの妻の目はまともじゃなかった」

 これはもう、間違いないだろう。

 篠原は穂村の懸念けねんが当たっていた事を内心で悔やみながら、彼の話に耳を傾ける。

「あの家は今どうなっている事やら。この辺の土地で色々と噂になっているみたいなんですが」

「そうなんですか? 例えば……」

「妻が発狂して私たちを皆殺しにしたとか、あの家で自殺したとか、私が浮気相手と一緒に家を出て、子供二人は消息不明だとか……一家心中した私たちの幽霊が出るとか何とか」

 大樹は自嘲気味に笑った。

 それから篠原はいくつか細かいポイントを質問したあと、大樹と別れてファミレスをあとにした。

 県警本庁に戻り、メールで穂村への報告を済ませ、どうしても片付けなければならない別件の仕事に従事する。

 そうして、二〇二〇年八月二十六日の昼前に、あの螺木町の外れにある空き家へと向かったのだった。



 二〇ニ〇年八月二十七日。

「あの刑事さんが関わっているとなると、かなり信憑性の高いスポットみたいだね」

 桜井は満足げに頷く。

 そして茅野が楪と松本に質問を続ける。

「……この心霊写真と、冷蔵庫が移動した他に、何かおかしな事はなかったのかしら……?」

 すると、楪が何とも言えない表情で松本の方に視線を向ける。

 松本はどこか脅えた様子で口を開く。

「そのあとに、ゆずちゃんの家にいって冷蔵庫が動いた事とか、心霊写真の事とか、三人で色々と話し合って……」

「すぐに私たちに頼ろうとしないで、自分たちで考えようとしたところは評価できるわ」

 と、茅野が感心した様子で言った。

 しかし、いくら話し合っても、一連の出来事についての有力な解釈は出なかったのだという。

「それから、ゆずちゃんのお母さんが作ってくれたお菓子を食べながら、ちょっとだけトランプで遊んで……」

 夕方になったので、松本と宮野は戸田宅を辞したのだという。

「……それで途中まで、宮野くんと一緒だったんだけど、宮野くんと別れたあとに、誰かに後ろをつけられているような気がして」

「それは、相手の姿は見たの?」

 その桜井の問いに、松本は首を横に振る。

「……それで、気のせいかなって思って忘れてて。そして、朝になったら、部屋の窓に……」

 そう言って、松本は再び自分のカメラを操作して、サブディスプレイに表示された画像を桜井と茅野に見せた。

 その写真に写し出された窓硝子には、真っ白い手形・・・・・・がくっきりと浮かんでいた。

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