【02】はじめてのスポットたんさく


 そこら中を飛び回る蝿が不愉快な羽音を立てていた。

「……ほら。今日は敬士の好きなハンバーグよ?」

 皿がテーブルの上に置かれると、薄暗闇にほこりが舞いあがる。

 その湯気を立てた肉塊の上に降り立とうとした蝿を、枯れ木のような右手が払った。

「ちょっとぉ! 美知! ご飯のときに携帯はいじっちゃ駄目って言ったでしょ?」

 返事はない。聞こえてくるのは蝿の羽音のみだった。

「ねえ、アナタも言ってやってよ。新聞ばっかり見てないで……」

 返事はない。

「……え? もう。アナタはいっつも美知には甘いんだからっ!」

 返事はない。

「……ちょっと、敬士! お肉だけじゃなくて、野菜もしっかり食べなさい」

 その直後だった。

 頭上から、ぎしぎし……と、床板を踏み締める音が聴こえてきた。

 彼女は天井を見あげる。

「一匹……二匹……近所の可愛い猫ちゃんかしら? もう。ご近所さんが野良猫に餌をやっているのね?」

 ぎし、ぎし、と足音が玄関の方から次第に近づいて来る。

 しわがれた右手がキッチンラックへと伸びた。

「……こっちに来たら、許さないんだから!」

 そう言って、彼女は錆びついた包丁を抜き取った。




 生い茂る雑草を割って延びる煉瓦の小道を渡り、ポーチの奥にある木製の玄関扉へと松本が手を伸ばした。

 ノブを掴むと鍵は開いており、あっさりと扉が開いた。

 戸田と松本は、ごくり……と、喉を鳴らして息を飲んだ。真夏の熱気に蒸された埃の臭いが、二人の鼻先に漂う。

 玄関ホールは上から見おろすと正方形をしており、底辺の右隅に玄関があるとすると、上辺の中央に二階への階段があった。

 階段の右側の隙間には、段ボールや冷蔵庫などの家電が押し込められている。

 階段の左横から奥へと廊下が延びており、ホール左辺の壁にはリビングへの入り口があった。

 戸田と松本の二人は、本格的な心霊スポット特有の雰囲気に圧倒され、しばらく扉口で佇む。

 やはり、心霊スポット凸をライフワークとする、どこぞの女子高生とは違い、彼女たちは超常的な何かへの恐怖を人並みに持ち合わせていた。 

 本来ならば、やはり“興味はあっても足を踏み入れるのは怖い”といったところが本心であったが、お互い隣に立つ友人に見栄を張りたい気持ちも強かった。

 どちらともなく視線を合わせて頷き合うと、ほとんど同時に最初の一歩を踏み出す。

 そのまま、ぎし、ぎし、と、軋む足音を響かせて玄関ホールの中央まで進んだ。そこで、いったん足を止める。

「……どっちから行く?」

 と、戸田が尋ねると松本は可愛らしいポシェットの中から、猫のキャラクターのキッズ用デジタルカメラを取り出した。

「まずは二階から……かな? 何となくだけど」

「うん……」と、戸田も異論はないらしく、首肯して階段を見あげた。再び歩き始める。そして、階段を登る直前だった。

「待って」

「な、何?」

 その唐突な松本の声に背筋を震わせて足を止める戸田。

 松本は階段右手の隙間を覗き込みながら、何気なくシャッターを切る。

「な、何か、いた?」

 恐る恐るといった調子の戸田の質問に、松本は首を横に振って答える。

「ううん。何となく。試し撮り」

「なあんだ……」

 ほっと、胸を撫でおろす戸田であった。

 二人は、そのまま慎重な足取りで階段を登った。




 それから、戸田と松本は廃屋の中を隅々まで巡った。

 二階の寝室や子供部屋……和室に洋室……リビング、キッチン、風呂場やトイレなどの水回りなど……。

 家具や生活用品はあまり残されておらず、割れ窓から入り込んだ木の葉や枝が、そこら辺に散乱していた。

 どこも荒れ果てていたが、随所に誰かが住んでいた頃の在りし日を窺わせる名残もあり、退廃とした廃屋ならではの美しさがあった。

 しかし、そうした魅力を楽しむには、二人はまだ幼な過ぎたようだった。雰囲気に慣れてくると次第に退屈さを感じ始めて、ふざけ出す。

 唐突に大声を出して脅かしあったり、変なポーズをキメて写真を撮りあったり……。

 そうして時は過ぎ、探索開始から三十分後であった。

 完全に飽きた二人は帰る事にした。

 最後に回った裏口前の物置部屋から玄関ホールへと戻り始める。

「……特に何にもなかったね」

 その、どこかほっとしたような、落胆したかのような声音で感想を述べた戸田に対して、松本も何とも言えない表情で「そうだね……」と返事をした。

 二人は玄関扉を潜り抜け、白い煉瓦の小径を渡り、門の外へと向かう。

「ねえ、姫ちゃんの家で、今日撮った写真、もう一回見てみようよ。何か幽霊とか写ってるかも」

「あー、そうだね。わんちゃん・・・・・あるかも」

「犬?」

「違うよ。あと一回、チャンスがあるかもって意味。うちのパパがよく言うんだけど……ユズちゃんのパパは言わないの?」

「聞いた事ないかも」

 ……などと、他愛もない会話をしながら廃屋から遠ざかってゆく。

 その小さな背中を玄関扉の僅かな隙間から血走ったまなこが、じっとめつけていた。

 





 二〇二〇年八月二十七日の事だった。

 未だに宿題の事を思い出していない桜井梨沙は、『洋食、喫茶うさぎの家』にて、朝からバイトに精を出していた。

 そうするうちに座敷童子効果で、コロナ禍においてもそれなりに慌ただしいランチタイムが過ぎ去っていった。オーダーが途切れたところで、桜井は厨房を後にする。

 店内にはレジの前以外に客はおらず、各テーブルやカウンターには空いた食器がいくつか残されていた。

 お盆とダスターと消毒スプレーを持って、席を片付けようとする桜井。取り掛かろうとしたところで入り口のカウベルが鳴った。

 反射的に視線を向けて「いらっしゃいませ」と言い掛けたところで言葉を飲み込んだ。

 入店してきたのは、不敵な笑みを浮かべる茅野循であったからだ。

 彼女は勝手知ったる様子で店内を横切り、桜井の方へと近づいてくる。

「……ご飯、食べに来たの?」

「それもあるけれど、つい三十分ほど前に楪さんから電話があったわ。何か相談したい事があるらしいのだけれど……」

「心霊?」

「でしょうね」と、茅野は答えて、近くの空いた席に腰をおろした。メニューを広げ始める。桜井は、にんまりと無邪気な笑みを浮かべ……。

「そいつは、楽しみだねえ……」

 と、言って、再びテーブルを片付け始めたのだった。

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