【09】傷痕


 それは、二〇〇八年の十二月中旬も終わりに差し掛かろうという時期だった。当時の姫宮は間近に迫ったクリスマスライブの準備に追われていた。

 この頃のGirly7は、さして有名ではない地下アイドルといったポジションであったが、姫宮の毎日は充実していた。

 人前で表現する喜びが、周囲の評価や練習の辛さよりも勝っていたからだ。

 評価されない事への焦りも、将来への不安も彼女は感じていなかった。

 兎に角、人前で歌って踊りたい……目の前のステージを全身全力で楽しみたい。それだけだった。

 この日も終電間際までレッスンに励み、最寄り駅から在来線の下りで帰路に着く。

 酔客や仕事帰りの勤め人たちがまばらに席を埋める電車内で、帰り道を共にしていたメンバーと別れ、高円寺駅で下車する。

 そのまま改札を潜り抜けて外に出た。

 夜風は冷たく街灯の明かりの届かない場所は闇が濃い。そのまま駅前を通り過ぎ、人気のない住宅街の路地へと入る。

 そして、あと数分で当時の下宿先である安アパートへと辿り着こうかというときに、姫宮はようやく気がついた。


 ……後をつけられている。


 ゾッとして、背筋が震える。駅からずっと背後の人の気配が消えない。

 最初は単に行く方向が同じだと勘違いしていた。しかし、姫宮が歩調を早めると同時に後ろを歩く何者かの足音がテンポを増す。そして、何よりうなじに感じる粘り気のある視線……。

 このまま帰ったら、家を特定される。そう思った姫宮は、早足でアパートの前を通り過ぎた。

 すると、後ろを歩く何者かの歩調が一気に早まる。足音が瞬く間に後頭部へと迫る。焦った姫宮は、小走りになりながらコートの右ポケットから携帯電話を取り出した。

 警察へ通報しようとした直前で右腕を後ろから引かれて、携帯を無理やり奪われる。

 暴力への恐怖が全身の筋肉をこわばらせた。悲鳴をあげようと息を吸い込んだところで背後から突き出た左腕が視界を覆い口元を塞がれる。

 姫宮は精一杯の力で暴れたが、背後にいる人物はびくともしない。

 明らかに興奮した荒い息遣い……。

 背後の誰かが「へっ」と小さく鼻で笑った。恐怖に染まった姫宮の瞳から涙が溢れる。

 その瞬間だった。


「おい! お前、そこで何やってんだよ!」


 その声は後方から聞こえた。男の声だった。次の瞬間、姫宮は前方に突き飛ばされて、少し湿ったアスファルトの上に四肢をついた。

 背後の暴漢が、彼女の脇を通り抜けて前方へと駆けてゆく。

 そして、背後からやってきた何者かが、起きあがろうとしていた姫宮の右腕を掴んで優しく引きあげる。

「君、大丈夫? 怪我は?」

 端正な顔立ちの男だった。姫宮と同い年か少し歳上といったところであった。遊び慣れていそうな、派手な格好だったが、その眼差しは真摯で優しかった。

「……だ、大丈夫です。ありがとうございます」

 恐怖に震えながら声を絞り出すと、彼はほっとした様子で微笑む。

「……取り敢えず、警察に連絡しようか」

 そう言って、着ていたコートのポケットから携帯電話を取り出した。

 この彼こそが、後に姫宮の恋人となる岸田良平であった。




 二〇一一年の三月。

「……その男の顔とかは見なかったけど、口を手で覆われる瞬間に見たの」

『何を?』と、受話口の向こうで高槻が息を飲んだ。

 姫宮が当時の記憶を甦えらせ、表情を曇らせたまま答える。

「……左掌だったと思うけど、指のつけ根にけっこうはっきりとしたほくろが三つ並んでいて……」

『それって……』

「うん。もしかしたらハンドルネームの由来ってそれかなって」

『……そういう、黶があるお客、握手会のときとかにいなかった?』

「だから、覚えてないよ……ていうか、そんなファンがいたら、そのときに言ってる」

『そっか、そうだよね……』と、高槻は納得し、

『……取り敢えず、何か思い出したら連絡してよ』

 姫宮は「うん、解った」と了承した。

 それからは、お互いのプライベートな近況報告に移り、通話を終えた頃には一時間以上が経過していた。

 姫宮は温くなった残りの発泡酒を飲み干すと、ほどよくアルコールの回った頬を少しだけ上気させ、独り言ちる。

「……みんな、頑張ってるなあ……私も、頑張らなきゃ……」

 こうして、姫宮あかりは再び芸能活動の再開を決意したのだった。



 二〇二〇年八月二十一日。

 ベッドで上半身を起こし、ぼんやりと過去の記憶を思い出していた姫宮は、ふと我に返る。

「……そうだ。そのあと、私は地元の県の事務所に所属するようになって……それから……どうしたんだっけ……?」

 自問するも答えはすぐに浮かんで来ない。

 あの白衣を着た松崎という医者・・の事も、この病院・・に入院した経緯も思い出せない。

「……いったい、どうして、私はここに……」

 次の瞬間だった。

 何気なく目線を置いていた自分の右手首に刻まれていた傷痕が跡形もなく消え失せている事に気がついた。

「……ど、どうして……?」

 己の右手をためつすがめつしながらまばたきを繰り返す姫宮。

 すると、部屋の扉が開き、松崎が姿を見せる。

「どうしたの? あかりん、そんな顔して……」

「あ、あの……その……」

 姫宮はベッドに近づいてくる松崎と自らの右手首の間で視線を行き来させる。

 松崎がベッドの傍らで「ああ……」と、得心した様子で頷いた。

「右手首の傷痕は僕が綺麗にしておいたよ。女の子だもんね。やっぱり、気になるかなあ……って、思って」

 そう言って松崎は、無邪気に笑った。

 そして、困惑しつつ己の右手首を見つめ続ける姫宮に向かって彼は尋ねる。

「ところで、僕の事は、そろそろ思い出せた?」

 姫宮は彼の顔を見あげながら、ゆっくりと首を横に振った。

 松崎は悲しそうな顔で「そう……」と呟いた。


 

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