【08】ORION
二〇一一年の三月頃だった。
このときの姫宮あかりは地元の県に帰ってきており、旧友の口利きによって
仕事場は実家から通える距離であったが、姫宮はワンルームのアパートでの独り暮らしを選択していた。騒動になった自分が実家にいては、世間体が悪いと思ったからだ。
しかし、両親は彼女が実家を出る事に当初は反対していた。騒動が起こり恋人の岸田と別れたあとに、姫宮は一度だけ自殺未遂をおかしていたからだ。
この騒動は内々で処理され、世間に知れ渡る事はなかった。しかし、そのときの痛々しい傷痕は未だに彼女の右手首に刻まれたままだった。
だが、今となっては精神状態は極めて安定しており、もう姫宮の脳裏に自ら命を絶つという選択は欠片も残っていなかった。
そこで、掛かりつけのカウンセラーのお墨つきをどうにか取りつけて、両親を説得して許可を得た。
元々、園芸には興味があったので仕事は楽しく、姫宮は平穏な日常を取り戻しつつあるところだった。
ともあれ、そんな日々の中の、ある休日の昼さがりの事だった。
安い発泡酒を片手に、自室でのんびりと取り溜めていたアニメを鑑賞していると、高槻志歩から『今電話してもいい?』というメッセージが送られてきたのだ。
姫宮はかつての仲間の近況も気になっていたので、彼女の申し出を了承する返事を返した。
すると、五秒もしないうちに姫宮のスマホに着信があった。
電話ボタンを押してスピーカーにすると『もしもし、志歩……?』と、声を発してスマホを
そして、リモコンを片手にテレビから流れていたアニメの音量を小さくする。
すると、スマホから高槻の申し訳なさそうな声が聞こえてきた。
『ごめんね。なかなか、連絡できないで……』
姫宮は首を横に振りながら微笑む。
「ううん……だって今、忙しいでしょ?」
あの一件で、Girly7はメディアの露出が増えた事により、その知名度はより一層あがった。
残された六人のメンバーに対しては同情的な見方をする者が多く、そういったファン層の後押しもあり、結果的に以前よりも活躍の機会が増える事となった。
年末に行われたカウントダウンライブもキャパの大きな箱だったにも関わらず、チケットはソールドアウトしたそうだ。
グループは姫宮が生け贄になった事で、大きな
『ごめんね……? あかり……本当に、ごめん……私とゆずが本当の事を言わなければいけないのに……』
「ううん。志歩……テレビ、観てるよ。いつもチェックしてる」
『本当に、ごめんなさい……』
正直に言ってしまえば、悔しさはある。
姫宮は小さな頃から人前で歌うのが大好きだった。アイドルになる事が夢だった。もっと、たくさんの人に自分の歌を届けたかった。
しかし、その夢があんな理不尽で潰えてしまうなど、受け入れられる訳がない。
だが、あの騒動でGirly7の現在が悪い方に進まなくて本当によかったと、姫宮は心の底から安堵していた。
自分独りが悪者扱いされている事は未だに納得ができていなかったが、自分が黙っていれば少なくともかつての仲間たちは救われるのだと、ようやく現状を受け入れる事ができつつあった。
だから、このまま高槻に謝られ続けるのも忍びないと思った姫宮は、話題を変えようとした。
「……で、今日は、どうしたの? いきなり連絡なんてしてきて」
『あ、うん。あかりに、どうしても伝えたい事があってさ……』
「なになに? 新しい彼氏でもできたの?」
と、おどけると、高槻は『いやだ……そんな訳ないでしょ』と、笑って、次のように言った。
『武道館……決まったの』
「え、マジで……」
大きく目を見開き、言葉を失う姫宮。
『うん。今年の年末。まだ解禁の情報じゃないけど、あかりには、真っ先に教えたくて……』
涙が自然と溢れ、堪え切れず
「おめでとう……本当に、おめでとう……うう」
『本当に、ごめんね……』
「だから、いいって……もう」
そう言って涙を拭う。
素直に嬉しかった。それと同時にかつての仲間が更に遠くへ行ってしまったような寂しさもあった。様々な感情が胸の奥で渦を巻き、涙が止まらない。
「……本当に、よかった。おめでとう……」
と、祝福の言葉を繰り返す。すると……。
『それと、もう一つだけ、聞きたい事があって……いいかな?』
高槻が急に冷静な声音で切り出す。姫宮も涙をどうにか堪えて応じた。
「何?」
『……実は“
「ああ……」
そのORIONという言葉を聞いた途端に姫宮の気持ちは冷めて、涙が止まるのを感じた。
ORIONとは某匿名掲示板の固定ハンドルネームで、姫宮が例の騒動を起こしたときに率先して彼女を叩いていた人物であった。
その書き込みは、内容、頻度ともに常軌を逸しており、エゴサーチの際にORIONの書き込みを見るたびに姫宮は顔をしかめていた。
そして、現在のORIONは凶悪な姫宮アンチからGirly7全体のアンチに鞍替えしており、インターネット上で『今のG7は姫宮あかりを踏み台にして売れた卑怯者たちの集まり』という主張を繰り返しつつ、メンバーや所属事務所への暴言を繰り返していた。
特に最近、その書き込み内容はエスカレートしており、ほとんど脅迫文に近いものとなっていた。
『マネージャーの話だと、事務所も法的措置を考えようとしたらしいんだけど……』
弁護士を通して開示請求をしようとしたが、ORIONの書き込みは海外のプロキシサーバを経由したもので、IPアドレスの特定には至らなかったのだそうだ。
『……それで、ORIONがネットに現れたのは、あかりの写真が雑誌に載った頃だけど、あいつ、たぶん、相当な古参だよ。書き込みの内容からすると。それこそ“
Bogueとは都内の地下アイドル御用達のライブハウスである。Girly7生誕の地でもある。
『……それで、あの頃のファンでORIONぽいやつに心当たりがないかメンバー全員に聞いてるんだけど……』
「
姫宮は何となくORIONは彼ではないかと、疑いを持っていたのだが……。
『たぶん、小久保くんじゃない』
「どうして?」
『彼、フランス生まれの帰国子女だもの。私たちがデビューしたての頃は日本にまだいなかったって、前に聞いた事があったし……』
「うーん……なら、違うか」と、しばらく姫宮は当時の握手会やチェキ撮影で見た顔を思い出してみたが、やはり、その中にORIONのような凶悪な人物がいたとは思えなかった。みんな、純粋に自分たちのグループを応援してくれている者ばかりに思えた。
「やっぱり、解らない……ごめんなさい。役に立てなくて」
『ううん。別にいいの。本題は武道館が決まった事の報告の方だったから別にいいんだけどさ』
「そう……」
『でも、もう一つだけ……』と、高槻は前置きをして、語り始める。
『あの、あかりの元カレの住所を晒したTwitterの捨て垢の名前……』
「“みたらしぼし”だっけ?」
それは姫宮にとっては忌々しき言葉であった。
『その、みたらしぼしって、どういう意味か知ってる?』
「……え、何?」
そもそも意味があるなどと考えた事のもなかったので、姫宮は聞き返した。すると、高槻が一拍の間を挟んだのちに答える。
『
その瞬間、姫宮は凍りつく。
まさか、あれもORIONの仕業だったなんて……あの住所晒しがなければ、少なくとも岸田良平に迷惑を掛ける事はなかった。
「いったい、ORIONって、何者なの……私に何の怨みが……」
そこで、姫宮の脳裏にある記憶が甦る。
「あっ」
『どうしたの? あかり……』
「私、ORIONを知ってるかも」
そうして、姫宮は記憶を辿りながら、受話口の向こうの高槻に語り始めた。
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