【02】えびす荘


 それは夏休みも終盤に近づいた二〇二〇年八月二十一日の事だった。

 この日も昼までバイトに勤しんだ桜井梨沙は、義兄から車を借りると、いったん帰宅して身支度を整えた。

 それからハンドルを握り、茅野宅へと向かったあとで県北の海沿いを目指す。

 もちろん、心霊スポット探訪である。

 銀のミラジーノは町の郊外へと抜けて海沿いに横たわる国道へと辿り着く。

 小一時間ほど走ると風景が変わり、岩場やトンネルが多く目につくようになってゆく。

「……それで、今回はどんなスポットなの?」

 と、桜井がフロントガラスの向こうに目線を置いたまま、いつものように茅野に尋ねる。

 すると、助手席の彼女は、ほくそ笑みながら解説を始めた。

「今回のスポットは“えびす荘” 一九八九年から二〇一四年まで営業していた旅館で、日本海を臨める景観と、近くに有名な海水浴場があった事から、全盛期はそれなりに繁盛していたみたいだけど、今となってはかなりの不気味なスポットと化しているわ」

「どう不気味なのさ?」

「もちろん、スポット内で様々な各種心霊現象が体験可能らしいのだけれど、どうも、このスポットは行ったあとにも注意が必要らしいわ」

「……というと?」

「えびす荘へ肝試しに行った帰り道に必ず事故に遭う……という噂がネット上では真しやかに語られてはいるの」

「後から効いてくる心霊スポットっていう訳だね?」

 きりっ、と、眉を釣りあげる桜井であった。しかし、茅野は鼻を鳴らして肩をすくめる。

「……でも、この“帰り道に事故に遭う”という噂は、島根県の有名スポット“かもめ荘”の逸話が元ネタっぽいのよね……」

 かもめ荘とは、出雲大社の程近い場所に所在する日本国内でも屈指の心霊スポットだ。

 希代の霊能者として一世を風靡ふうびした宜保愛子ぎぼあいこが、最後に訪れた心霊スポットとしても有名である。

「何だ。パクりか……」

 肩を落とす桜井。しかし茅野は運転席に向かって右手の人差し指をメトロノームのよう振る。

「いいえ。単なるパクりともいえないわ」

「どゆこと?」

「……実は最近の事なんだけど、あるYoutuberが、このえびす荘を訪れた後日に失踪したらしいの」

 ひゅう……と、口笛を鳴らす桜井。茅野も口元をにやりと歪めた。

「……まあ、失踪したYoutuberがえびす荘を訪れたのが緊急事態宣言明けくらいで失踪したのが今月の始めくらいだから関係あるかは微妙だけれど、ネットのオカルト界隈では、えびす荘の呪いなのでは……という噂が流れているわ。何でも、その人は失踪する直前くらいに『えびす荘に行ってから、ずっと誰かに監視されているような気がする』と周囲の人間に漏らしていたらしいの」

「……それは、かなり玄人向けスポットだね」

 満足げに頷く桜井。

「……で、その旅館も過去に何かあったんでしょ? スポットになるような事件がさ」

「そうね」と、首肯する茅野。そして、右手の指を二本立てる。

「このえびす荘では過去に二つの悲劇が起こっている」

「二つも……」と、目を丸くする桜井。茅野は相方のリアクションに対して満足げに頷くと話を続けた。

「最初の悲劇は一九九六年十月の事ね。このとき、五〇三号室に宿泊していた四人連れの家族が硫化水素で心中するという事件が発生している」

「うへえ……動機は?」

「この家族の父親は経営に失敗して、かなりの借金があったみたいね」

「どうせ死ぬなら、最後にいい旅館に泊まって死のうみたいな……?」

「そうかもしれないわね」

「それは、はた迷惑だねえ……」

「ともあれ、この事件で対応に当たった従業員二名が病院に搬送され、うち一名が死亡した。現場となった部屋と同じフロアを利用していた他の客たちの中にも気分が悪くなった人が何名もいたりして、現場は大混乱だったらしいわ。特に当時は、あの地下鉄サリン事件の衝撃も冷めやらない時期だったものだから……」

「あの真理教のやつか……そりゃあ、大事だね」

「そうね。以来、五〇三号室ではその家族の幽霊と遭遇できるらしいわ。それから、事件で死んだ従業員の霊が夜な夜な各フロアの廊下を彷徨さまよい歩いている……なんて言う話もあるわ」

「いいねえ、そそるねえ」と、ほくそ笑む桜井。

 すると、それは、前方百メートルほどであった。海とは反対側の山肌に昇り坂の脇道が見えてくる。桜井はウィンカーを出すと、その坂へと車を進ませた。

「……で、二つ目の悲劇っていうのは……?」

「二つ目の悲劇は二〇一二年の七月。この頃になると不景気の煽りから、旅館の経営はかなり悪化していたのだけれど、一説によれば、この一件によってとどめを刺されて客足が途絶え、えびす荘は廃業に追い込まれたという話ね」

「それは、よほどの事だったみたいだね」

 二人を乗せたミラジーノは緩やかな左曲がりの坂道を昇りつつ海沿いから遠ざかる。

 沿道には法面のりめんモルタルの崖と錆びついたガードレール、そして鬱蒼うっそうとした杉林が連なっている。

「……で、何が起こったのさ?」

「えびす荘に宿泊している最中だったアイドルが近くの断崖から投身自殺を図ったのよ」

「アイドル……あ、何か、そのニュース、覚えてるかも」

「当時、彼女は、この近隣で開かれる花火大会にゲストとして呼ばれていたのだけれど、スケジュールの都合で前日に現地入りして、えびす荘に宿泊していた。彼女はwikiによれば、元々はこの県の生まれだったらしいわね」

「ああ……確か名前は」

 桜井の言葉に茅野は頷く。

 そして、その名前を口にする。


姫宮あかり・・・・・。当時、人気絶頂だった“Girly7ガーリーセブン”の元メンバーよ」


 その言葉の直後だった。

 昇り坂の先に木立の中に埋もれた巨大な四角い建物の屋根が見えて来る。

 二人を乗せた銀のミラジーノは、もう間もなくえびす荘に到着する。


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