【01】記憶喪失


 ブウウウーーーン…………という、音が五月蝿くて、姫宮あかりは目を覚ました。そこは見た事のない部屋だった。

 調度類はすべて真新しく、大型量販店で買えるようなものばかりであったが、天井や壁はひびの割れたコンクリートが剥き出しになっていた。微かに鼻先を漂うのは生ゴミのような腐敗臭で、室内の空気はすこぶる悪い。

 窓の内側にはボルトで木板が打ちつけられており、その隙間からは太陽光が漏れていた。

 入り口のドアは一つだけ。彼女が寝ていた簡素なパイプベッドから、モスグリーンのカーペットが敷き詰められた床を挟んで、反対側の壁にある茶色い扉のみだった。

 この扉も周囲の壁と比べると真新しく、後から取りつけたものである事が推測できた。

 近くのサイドボードの上には扇風機が乗せられており、首を振りながらプロペラを回転させていた。どうやら、目覚める寸前に聞いた音はこれだったらしい。

 扇風機から送られてくる風は生温く、部屋全体の湿度も高い。不愉快な汗が身体から滲み出ており、身にまとっていたゴシック風の白いパジャマワンピースに湿り気を与えていた。

「……何なの?」

 ベッドで上半身を起こしたまま周囲を見渡して、素足をカーペットに着けた。扉に向かって大声で叫ぶ。

「誰か……誰かいますかっ!」

 その瞬間だった。

 姫宮あかりは気がついてしまった。自分が名前以外に何も覚えていないという事に……。

 自らが姫宮あかりであるという事は知っている。しかし、その姫宮あかりがどういう人物であるのか、まったく解らないのだ。

「あ……あああ……あ……あ……」

 次第に喉の奥から狂気が吹き溢れる。

 頭蓋骨が……脳髄のうずいきしる。

 姫宮あかりは絶叫した。

 あらんかぎりの力で、獣のように吠え散らかした……。

 すると、がちゃり……という、開錠の音がして、この空間の唯一の出入口である扉が開いた。

 その向こうから姿を現したのは丸眼鏡をかけた白衣姿の男だった。

 男は扉を閉めてサムターンを回したあと、慌てた様子でベッドへと駆け寄って来る。そして、血相を変えながら、姫宮の両肩を揺すり始めた。

「大丈夫……大丈夫だから。あかりん、大丈夫だよ……」

「あっ……あっああ……あああああっ……ああ……あ……あっ」

 あかりん……それはいったい何なのだろうか。自分の事なのだろうか。この男は何を言っているのだろうか。

 姫宮は叫び続けた。すると、男が思い切り抱きついてきた。

「あかりん、しっかり……しっかりして!」

 そう囁きながら、背中を優しく撫で回す。

「あああああっ……あっあっあっあっあっあっあっあっあっあっ……」

 姫宮は両手を振り回し、両足をばたつかせてもがいた。

「落ち着いて! あかりん……お願いだから、落ち着いて……」 

 男の抱き締める力がより一層強くなる。更に激しく暴れる姫宮。

 その状態がしばらく続いたあとだった。溜め息と共に、その声が姫宮の耳元に届いた。

「……あーあ。今回も駄目か・・・・・・……」

「あ……」

 姫宮の絶叫がぴたりと止まる。四肢の力が不意に抜けて緊張が治まる。

「あかりん……?」 

 男がゆっくりと身体を離した。姫宮は呆然としたまま、ベッドのかたわらで見おろす彼の顔を見あげた。

「貴方……誰なの?」

 その問いを発すると、男は唐突に涙を滲ませる。

「あかりん……やっと、気がついてくれた」

「あか……りん……? 私、姫宮、あかり……」

「自分の事が、解るんだね?」

 姫宮は男の質問にゆっくりと頷く。すると、男は見る見る間に顔を綻ばせ、天井に向かって両腕を突きあげた。

「やったあー! 成功した! 成功したんだっ!」

 そのまま、くるくると回りながら男はベッドから少し離れた位置で膝を折り、背を丸めて地面に突っ伏しながら咽び泣き始めた。

「……やった。よかった。あかりん……あかりん……本当によかったよ……」

 訳が解らずに困惑し、眉間にしわを寄せる姫宮。

「また、今回も駄目だと思った! 諦めるところだった! でも、僕の愛が通じたんだ……」

「あの……すいません」

 その姫宮の声はまったく男に届いていないようだった。

「神様に通じたんだっ! 神様はちゃんと見ていてくれているっ! 純粋な想いを……愛を……うううううっ。僕がこの世で一番、あかりんを愛しているんだ」

「あの、ちょっと!」

 さっきより、大きな声を出したが、男は完全に自分の世界に旅立っているらしく聞く耳を持とうとしてくれなかった。

「ああああ……神様、あかりんを助けてくれて、ありがとう……」

「あのっ!! ちょっとっ!!」

 ……そのかつてない大声のあと、男はぴたりと泣き止んで立ちあがる。膝を払って眼鏡のブリッジを、くいっ……と持ちあげると、姫宮の方に向き直る。

「あ、ごめんなさい。あかりん」

 歳の頃は三十代後半だろうか。線が細く顔の形も整っている。理知的な雰囲気を漂わせているが、ついさっきからの言動は、オーバーであまりにも子供染みていた。

 そのアンバランスさに、そこはかとない狂気を感じた姫宮は密かに背筋を震わせる。

「……その、ここはいったい、どこですか? 貴方はいったい……」

「僕の事、忘れちゃったの……? それとも、まだ、思い出せないだけなの……?」

 男の表情が悲しみでくしゃりと歪んだ。

 姫宮は彼から目線をそらしてうつむく。

「たぶん……思い出せないだけだと、思います……自分の……名前以外……何も……思い出せません」

 そう言った瞬間、男の顔が、ぱあっ……と、明るくなった。

「そっ、そっか。無理しなくていいからね? あかりん。僕は松崎健介。ここは、病院だよ」

「病院……? じゃあ、私は何かの病気なの……?」

「そうだよ」

 と、松崎なる男がにっかりと満面の笑みを見せた直後であった。

 不意にかろやかなメロディが耳をついた。それは、姫宮の脳裏をくすぐる。聞き覚えのある曲のイントロだった。

 松崎が白衣の右ポケットからスマホを取り出す。どうやら、彼のスマホの着信メロディだったらしい。

 そのスマホの画面を見るなり、松崎の顔が苛立ちに歪む。

「どうかしたんですか……?」

 恐る恐る訪ねると、松崎は舌打ちをして「侵入者か……」と、小声で言った。

「シンニュウ……何ですか?」

 姫宮が聞き返すと、彼は再び笑顔を浮かべる。

「何でもない。大丈夫だから。あかりんはここでゆっくり身体を休めているんだよ……」

「えっ……ちょっと」

 その姫宮の言葉に答える事はなく、松崎は扉へと向かう。部屋をあとにした。そして、彼が出ていって扉が閉まったあとだった。

 外から、がちゃり……と、鍵をかけた音が鳴り響く。

 姫宮はしばし扉をじっと見つめ続けた。

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