【File42】えびす荘

【00】伝説の魔術師


 ぶん……と、機械音が途切れて足元から浮遊感が襲った。

 目の前にあった両開きの扉が、ガタガタと震えて開き始める。その向こうは曇りのない烏玉ぬばたまの闇だった。

 松崎健介まつざきけんすけは、恐る恐るエレベーターの箱の外へと足を踏み出した。

 すると、背後の扉が閉ざされ、箱から漏れていた光がついえる。その瞬間、松崎は「ひっ……」と掠れた悲鳴をあげて背筋を震わせた。

 わずかな光を取り入れようと両目をいっぱいに見開き周囲を見渡す。飢えた犬のような彼の荒い息遣いだけが、その闇を満たす。

 そこは有楽町に所在する、ある古びた六階建てのビルの屋内のはずだった・・・・・

 数年前からまことしやかにネット界隈で囁かれる、このビルに関する奇妙な噂……。


 “エレベーターのボタンを特定の順番通りに押すと、存在しない七階に辿り着ける”


 そのフロアには伝説の魔術師hogの工房があり、代償と引き換えに如何いかなる願いも叶えてくれるのだという。

 松崎はその魔術師に会いに来たのだ。ある願いを叶えてもらう為に……。

「……あ、あの、すいません。どなたか、いらっしゃいませんでしょうか?」

 その控え目な呼び掛けのあとだった。

 ばつん……と、何かが弾けるような音がして、奥から手前へと天井に並んだ灯りがまばゆい輝きを放ち始める。

「ひぃ!」という悲鳴が、松崎の渇いた咽をやすりのように擦った。

 ひび割れたコンクリートの床と壁面。明滅する蛍光灯。そして、その長細い廊下の突き当たりには一枚の扉があった。

 松崎は唾を飲み込んで深呼吸を一つすると、その廊下を慎重な足取りで進み始めた。

 壁、天井、足元……あらゆるところに灰色の染みが浮き出ており、それらはすべて叫びもがく人のような形に見えた。

 恐怖心が下腹を押し潰し足取りを重くする。奥歯がカタカタと音を立てる。

 しかし、松崎は、今さら引き返すつもりなど毛頭にもなかった。

 すべては最愛の彼女のために……。

 その一心で松崎は薄暗い廊下を歩き続ける。黄泉へと到る道を行く伊邪那岐いざなぎのように……。

 そして、松崎は扉の前に辿り着く。

 たがだか十数メートルでしかないその道程は、彼にとって無限に限りなく近い旅路であるかのように感じられた。足を止めた瞬間に凄まじい疲労感が身体の芯から沸きあがる。

 どうにか深呼吸をして、突き当たりの扉のドアノブへと震える指先を伸ばした。

 すると、その直後、がちゃり……と、音がした。ひとりでにドアノブが回転しだす。

「……どうぞ」

 その唐突に聞こえてきた声はボイスチェンジャーにでも通したかのような、無機質なものだった。

 松崎は、ごくり……と、咽を鳴らす。扉がゆっくりと開き始めた。



 部屋の片隅では蓄音器ちくおんきがサン=サーンスの『死の舞踏』を奏でていた。

 中東の意匠が施された絨毯、悪魔の口のような仄暗い暖炉とマントルピース、エミール・ガレを思わせる捻れたランプシェード……。

 緑がかった毒々しい色合いの照明が室内の不気味な調度類を照らしている。

 奥の壁にかけられた大きな額縁に納められているのは、ゴヤの『我が子を食らうサトゥルヌス』であった。

 その手前の豪華な応接の黒革のソファーに腰を埋めているのは、小柄な人影だった。

 まるで御伽話おとぎばなしに出てくる魔法使いのようなローブをまとい、フードを深々と被ってうつむいている。

 松崎は扉の前に立ったまま、どうしたらいいか解らずにいると……。

「こちらへ来て座れ」

 と、音楽を割って声がした。それは、まるで頭の中に直接鳴り響いたかのような……。

 その不気味な声に言われるがまま、松崎はローブの人物と向かい合って座る。

「あの……魔術師hogさん……ですか?」

 恐る恐る尋ねると再び声がする。

「それは、数ある私を表す名前の一つに過ぎないが、間違いではない。好きに呼んでもらってかまわない」

 男なのか、女なのか、老いているのか、若いのか……数メートルの距離で向きあっているにも関わらず、それらの情報が一切読み取れない。

 ……本当に、目の前にいる人物は実在するのか。本当に彼は、あの都市伝説にある魔術師なのだろうか。これは、夢なのではないか。

 そんな益体やくたいもない考えが頭を過る。

 すると、フードの向こうの暗闇から鼻を鳴らすような音がして……。

「……私は実在するし、私が私であるかという意味ならば、私は本物だ」

 その自らの考えを見透かされたような物言いに息を飲む松崎。

 すると、次の瞬間だった。

 暖炉が唐突に燃えあがる。そして、その炎は生き物のように揺らめきながら、赤から青、緑や黄色へと次々に色を変えていった。

「あ……あ……ああ……」

 松崎は言葉を失ったまま暖炉の炎を見つめ続けた。ここは、悪夢の中なのかもしれない。しかし、目の前にいるのは本物の魔術師だ。その事を強く実感した。

 魔術師は俯き加減のまま満足げに頷くと、

「……それで、お前はなぜ私の元を訪れたのだろうか。理由を話してもらいたい」

 本題を促され、松崎は身を乗り出して巻くし立てた。

「……僕の最愛の人を助けてください! お願いします! あなただけが頼りなんです……お願いしますぅ……ううう……」

 関を切ったように感情が溢れ出し、嗚咽おえつと涙を吹きこぼしながら訴える。それは、魂の底より沸きあがる慟哭であった。

「何でもします……何でも……死ねというなら、今、この場で死にますっ! お金ならこれからの生涯を掛けて必ず払います。だから……だから……だから……彼女を助けてくださいいいい……」

 欲望にけがされ、いわれなき悪意に曝され、傷つき、堕ちてしまった天使……。

 最愛の人。

 “姫宮あかり”

 松崎の目的は彼女の救済にあった。そのためならば、文字通り悪魔に魂を差し出しても構わないと彼は覚悟を決めていた。

「お願いしますぅ……あなただけなんです……魔術師hog様ぁ……あかりんを……僕のあかりんを救ってくださいっ!! お願いしますっう!!」

 松崎は黒檀こくたんのテーブルに突っ伏して喚き泣き散らす。

 すると……。

「構わない」

「へ……!?」

 顔をあげる松崎。

 黒々と闇が渦巻くフードの底は相変わらず窺えない。まるで、永遠に終わらない真夜中のようだった。

 魔術師は答える。


「お前の願いを叶えてやろう」

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