【10】唐突な静寂


 茅野邸を出発した銀のミラジーノは関越自動車道を経由し、群馬と埼玉の県境付近にある山間部のキャンプ場を目指した。特に何事もなく十二時頃に、キャンプ場へと辿り着く。

 桜井と茅野は車から降りて、トランクに積んでいた装備品の確認を入念に行う。

 すると、駐車場に緑のジムニーが入ってきて、ミラジーノの隣に停車する。

 そして、その開かれた運転席の窓の向こうから顔をのぞかせたのは九尾天全であった。

「二人とも、久し振りね」

「何か、リモートで会っているから久し振りっていう気はしないけどね」

 桜井が肩をすくめる。

「直接、顔を合わせるのは、あの夜鳥島以来かしら……」

 茅野は目を細め、足元に置いていたリュックを背負う。

 彼女の荷物は、何だか無駄に重たそうだった。

 いったい何を持ってきたのか不安にかられた九尾は、質問しようとした。しかし、寸前でさえぎられてしまう。

「取り敢えず、積もる話は車中でしましょう」

「そだね」

 桜井と茅野はジムニーに乗り込んだ。

 これから、三人は近くにある旧村道から長臑村を目指す事となる。

 村へと着いたら、九尾の能力でくだんの数珠の在りかを探り、見つけ次第、藤見市へ急いで帰る。それから、薫に取り憑いた八尺様と対決する……という計画であった。

 因みにジムニーは九尾がレンタルしたものだった。どうも旧村道はかなり荒れているらしく、悪路走破性を重視してのセレクトである。

「忘れ物はないかしら?」

 と、助手席の茅野が鹿爪らしい顔で言った。やはり、弟の危機という事もあり、その表情はいつもより少しだけ堅い。

「……うふふふ。八尺様がどんな吠え面をかいてくれるのか今から楽しみだわ」

 ……そうでもなかった。

 桜井も普段と変わらない、のんびりとした声を後部座席からあげた。

「だいじょうぶ。準備OKだよ」

「それじゃあ、行くわよ」

 と、九尾が車のエンジンを掛けた。

 じきに三人を乗せたジムニーは走り出す。

 ここまでは、予定通りであった。




「嘘でしょ……」

 ハンドルを握る九尾は目を丸くして、フロントガラスの向こうを見つめる。

「ついてないわね……」

 助手席の茅野も渋面を作ってなげく。

「上手くいかないねえ……」

 その後ろで、桜井が眉をハの字にして落胆らくたんした。

 それは、旧村道へと向かう途中の崖沿いの道だった。

 三人を乗せたジムニーの前に突如として姿を現したのは、道を塞ぐフェンスと『立入禁止』の看板であった。

 どうやら、先月の長雨で地滑りが発生し、この先の道が大きく崩れてしまったらしい。

「待って……今、他にルートがないか調べるから」

 茅野がスマホを取り出す。九尾は車をUターンして沿道に寄せる。

 そして、数分後だった。

 茅野がスマホの画面に目線を落としたまま声をあげる。

「あったわ。この近くに登山道があるんだけど、その途中から村の方へと続く杣道そまみちが延びているみたい」

「歩きか……どれくらい?」

 桜井の問いに茅野が答える。

「どうかしらね。けっこうな距離があるから四時間くらいは掛かりそうだけど……」

「四時間か……」

 九尾はげっそりとして、天をあおぐ。

 かなりの時間をロスする事となる。このままでは、間に合わないかもしれない。

 絶望の影が心に過りかけたが、九尾はかぶりを振って気を入れ直す。この二人が一緒なのだ。絶望など馬鹿馬鹿しい。

「取り敢えず、その登山口へ行きましょう。循ちゃん、ナビお願い」

「解ったわ」

 その茅野の返事を待たずに再びジムニーを走らせた。

 このとき、時刻は十三時をちょうど回ったところだった。




 時は経ち、時刻は十八時を回った。

 とっぷりと、西日に浸った茅野邸。

 その窓という窓に貼られた御札が、じりじりと……じりじりと……端から黒く焦げてゆく。

 それは、やがて灰となり、夕暮れ刻の風に流されて消えた――。




 冷房をつけているというのに、なぜか不愉快な湿度が肌にまとわりつく。

 おもむろに外から犬の鳴き声が聞こえ始めた。

 時刻は十八時十五分。

 茅野薫はリビングで音楽を聞きながら夏休みの課題を進めていた。一心不乱に取り組んでいたので、差し迫る恐怖を忘れる事ができていたが、いささか右手と眼球が疲れていた。そんな矢先であった。

 不意にイヤホンの外から聞こえてきた犬の鳴き声に不安を覚え、何となくソファーに腰をおろしたまま掃き出し窓の方を見た。

 すると、固く閉ざしたカーテンの隙間から漏れる血のような赤い光に、思わずぎょっとする。

 薫は弾かれたように窓辺から目線を逸らし、スマホを手に取って音量をあげた。

 すると、彼の両耳のイヤホンから流れていた音楽が大きくなり、犬の鳴き声が彼方へと遠ざかる。

 軽やかで弾むようなメロディと女性ボーカルの歌声が耳孔じこうを満たす。

 それはSNSから人気をはくし、今や幅広い世代に支持される音楽ユニットの楽曲であった。

 その音色に耳を傾けながら、再び薫はベッドの縁に腰をおろして項垂うなだれる。

 やがて曲が終わった。

 すると、途端にキッチンとの仕切り棚に置かれた固定電話が鳴った。

 薫は背筋を震わせて、たまらずイヤホンを外す。

 かなり迷ったが、電話は鳴り止まない。腰を浮かせて、受話器を取った。

 受話口を耳に当てて、恐る恐る口を開く。

「もしもし……?」

 すると、小さく息を飲む音がして聞きなれた喜多海斗の声がした。しかし……。


『もし、薫』


 これは・・・人間ではない・・・・・・

「あ……ああ……」

 薫は喉をせりあがる悲鳴を必死に堪える。

『閑か? 遊ぼうぜ』

 それは、あまりにも、いつもと変わらない調子だった。

『今、家の前まで来てるんだ。薫』

 姉の話を聞いていなければ、容易く騙されていた事であろう。

『なあ、薫? どうした?』

 耳に受話器を当てたまま視線を惑わしていると、キッチンの隅にある盛り塩の一つが目に入る。

『薫、開けて』

 その白い山が、頂点から徐々にゆっくりと、漆黒へと染まる。

『薫、遊ぼうぜ』

「ああああ……」

 薫は唇を戦慄わななかせ、闇色に侵食されゆく盛り塩をそのまま見つめ続けた。

 すると、テーブルの上に投げ出したイヤホンから漏れ聞こえていた音楽が、ぶつ……ぶつ……と、途切れ始め、代わりにあの音がし始める。

 それは、気泡が弾けるような、ペットボトルからグラスに液体を注ぎ入れたときのような、何かが擦れ合うような音だった。

『なあ、ところでさ……』

 そして、次の瞬間、

『おぉまえのぉ……きぃれいなぁ……おねぇさんはぁ……どこへいったのぉおおおおぽぽぽぽぽぽぽぽ……』

 喜多の声が盛大に歪んだ。

「ひぃっ……」

 かすれた悲鳴をあげて受話器を叩きつけるように戻し、電話を切った。

 すると、まるで地震のように、部屋中が……家全体が震え始めた。

 棚が、ソファーが揺れ動く。

 食器がカタカタと音を立てて、ローテーブルの脚が床を踏み鳴らす。筆記用具がカラカラと床の上に転がる。

 まるで、巨大な誰かが家を両手でつかんで、揺さぶっているかのような激しい震動。

「やめてくれっ!!」

 薫は背を丸めてしゃがみ込んで、両耳を抑え、堅く目をつむった。

 すると――。


 唐突に訪れる静寂。

 震動は止み、犬の吠え声も聞こえない。

 薫は恐る恐る顔をあげて、立ちあがる。

 もう終わったのだろうか。

 それとも、まだ続いているのか……。

 薫には、解らなかった。

 時刻は十八時二十三分になっていた。

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