【09】長臑村へ


 二〇二〇年八月十六日の朝。

 埼玉某所にある高層マンションの一室であった。

 佐島莉緒はカーテンから射し込む日の光を顔に感じて目を覚ます。

 背伸びをして、ベッドの上で上半身を起こし、サイドボードのスマホを手に取って画面を確認すると、東藤綾からメッセージが届いている事に気がついた。

 文面は以下の通りである。


 『たすけて! 莉緒』


「またか……」

 お次は何だ……と、佐島は苦笑する。

 因みに彼女とは、ここ数日、お互いのスケジュールの都合で一度も顔を合わせていなかった。

 取り合えず、ベッドから足を出して『朝ごはんを食べたら行く』と返信を打った。

 了承の意を示すスタンプが返ってきたのを確認したのちに立ちあがり、佐島はのそのそと身支度を始めた。




「……もうこれで三日連続よ!」

 と、渋い表情をするのは、広々とした和室の古めかしい応接に着いた東藤綾であった。

「ふーむ……」と、その向かい側で佐島は、クロテッドクリームとストロベリージャムをたっぷりと乗せたスコーンを頬張る。

 どうも東藤の話によると、あの蔵の二階で例の数珠を発見して以来、あの夢は見なくなったらしい。

 しかし、今度は代わりに三日前の深夜から、夢に出てきた謎の老婆が枕元に立ち始めたのだという。

 老婆は何かを語りかけてくるが、聞き取り辛くて何を言っているのかよく解らないのだそうだ。

「何か『お不動さん』とか『村に数珠を持って行け』とか、訳の解らない事をぶつぶつと……」

 東藤がおびえた顔で言う。

「ねえ、莉緒……これって、あの数珠の呪いなのかな……」

「ふーむ」

 と、思案顔で花柄のウェッジウッドで湯気を立てるアッサムをすすった。

「……前にアヤちゃんが見た夢で、最初に誰かの話声がしたって言っていたでしょ?」

「うん。確かそうだった……」

「その中で“クサに行くって村を出た”とか何とか、そんな声が聞こえたって、確かアヤちゃん言ってたよね?」

「うん。そう」

「あれ、やっぱり“クサズ”じゃなくて“草津”なんじゃないの?」

「うーん……そうなのかな……」

 どうも釈然としない様子で首を捻る東藤。

 佐島は再びティーカップに唇をつけてから言葉を発する。

「あのあと気になって調べたんだけど、地元の群馬県の人は大抵、草津くさつをクサって発音するらしいのよ。それで、あの夢でもう一つ、意味の解らない言葉があったでしょ?」

「何だっけ?」

 きょとんと首を傾げる東藤に苦笑する佐島。

「いやいや、ほら。“ナガスネサマ”とか何とか……忘れないでよ、アヤちゃん」

「ああ。うんうん……」

 東藤は両手を打ち、かくかくと首を縦に振った。

「それで、色々と検索していたら『群馬 ナガスネ』で出た訳」

「何が?」

「群馬とうちらの県の境目くらいに“長臑村”っていう村があったらしいの。今は、どうも廃村になっていて心霊スポットとして有名らしいんだけど……」

「心霊……」

 東藤はうっそりとした顔で身を引くが、すぐに肩の力を抜いて大きく深呼吸をする。

 そして、キリッとした表情で、立ちあがった。

「何だか解らないけど、その長臑村に、あの数珠を持って行けばいいのね!?」

「ええ……いや、そうなのかな?」

「そうよ。間違いないわ」

「え、行くつもりなの? アヤちゃん……」

「うん」

 と、東藤は力強く頷く。そして、すぐに捨てられた仔犬のような目つきをしながら佐島におねだりし始める。

「莉緒ぉ……」

「いや。えぇ……本気?」

 佐島は、この検索結果についての話を東藤に話した事を酷く後悔した。

 しかし、このままでは、東藤の枕元に謎の老婆がずっと立ち続けるという事にもなりかねない。

 今のところ実害はなさそうであるが、何もせずに放置し続けるのも気が引ける。

 何より、こうなってしまったら、東藤綾は独りでも長臑村に足を運ぶ事だろう。

 そうなったときに発生しうるトラブルを考えただけで、佐島の胃袋はきしみ始めた。

「はあ……解った。私も行くから」

 と、言った途端、東藤綾は真夏の向日葵ひまわりのような笑顔を浮かべて言う。

「やった! 流石は莉緒。ありがとう!」

 佐島は苦笑しながら思った。

 この笑顔に弱いんだよな……と。




 二〇二〇年八月十七日の早朝であった。

 茅野薫は自宅の玄関のかまちに立ち、姉とその友人である桜井梨沙の事を見送っていた。

 二人はこれから例の霊能者の言葉に従って、群馬県の長臑村という廃村へと向かうところであった。

 どうも、あの胡散臭い霊能者とは現地で落ち合う手筈てはずらしい。

「それじゃあ、薫。お姉さんたちが帰ってくるまで、絶対に家の中に誰も入れちゃ駄目よ?」

 姉が真剣な表情で念を押す。

 因みに家の東西南北の方向にあたる隅には盛り塩が盛られ、窓や扉の外にはすべてプリントした魔除けの札が貼られていた。

「解ってるけど……」

 もう、ここまできたら超常的な存在の実在を認めざるを得ない。理性ではよく理解していた。

 しかし、怒濤の如く押し寄せてきた様々な情報に、頭が上手くついていかなかった。

 まだどこかで、これは姉の仕組んだ壮大な悪戯なのではないかという疑念が晴れない。

 何とも言えず渋い表情をしていると、桜井梨沙が気安い調子で言った。

「だいじょうぶ……だいじょうぶ……カオルくんは泥船に乗ったつもりで待ってなよ」

「梨沙さん、泥船は沈むわ」

 と、突っ込みを受けて、照れ臭そうに頭をかく桜井。

「ごめん、間違えた」

 そんなやり取りを見て、薫は『きっと、僕の緊張を解そうとしてくれたんだな。やっぱり、梨沙さんは優しい……』と思った。

 もちろん、勘違いである。

 ともあれ、二人は右手をひらひらと振りながら、玄関の外の生温くなりかけた外気の中へと、その身を踊らせる。

「行ってくるわ。薫」

「いってきまーす」

 再び扉が閉まると、打って変わって静まり返る茅野邸の玄関先。

 そして、しばらくすると、銀のミラジーノのエンジン音が聞こえ、じきに遠ざかってゆく。


 決戦の地、長臑村へと――。




 その少しあとだった。

 菅山富一は日課であるシロの散歩に出かけようと、リードを握って門の外に出た。

 すると、彼は気がつく。

 向かいの茅野邸の玄関や、見える範囲のすべての窓に、何やら怪しげな御札が貼ってある。

 立ち止まり、その異様な光景をしばし唖然と眺めたのち、菅山は表情を曇らせる。

 幸いにもシロはご機嫌で、尻尾を激しく振りながら飼い主の事をぐいぐいと引っ張り始めた。

 菅山は何も見なかった事にした。

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