【01】SOS


 二〇二〇年八月十一日。

 埼玉県の某所にて。

 オレンジ色のクロスバイクが大きな屋敷の建ち並ぶ閑静な路地を軽やかに疾駆しっくする。

 そのペダルを力強く踏み締めるのは、お洒落なサイクルウェアに身を包んだ佐島莉緒であった。

 この日の彼女は、朝起きると自宅からサイクリングロードへと出かけるつもりであった。しかし、家を出てサドルに股がったところで幼馴染みの東藤綾よりメッセージが届く。

 その文面は……。


 『たすけて! 莉緒』


 で、あった。

 それを目にした彼女は、やれやれと溜め息を吐いて目的地を変更する。

 佐島は幼い頃から、常に突拍子もない行動ばかりを取る東藤の尻拭いをしてきた。

 しかし、どういう訳か面倒臭いと思う事はあっても、その役割を嫌だと感じた事はなかったし、むしろ進んで東藤の世話を焼きに行くようなところがあった。

 東藤も東藤で、そんな彼女に遠慮なく甘えてくる。

 歳は同じであるが、妹のような存在……それが、佐島にとっての東藤綾だった。

 そして、このときは、どうせ今回もくだらない事なんだろうなと高を括っていた。

 ともあれ、佐島は長く延びた築地塀ついじへいに沿って愛車を駆り、仰々しい格子の門前へと辿り着く。

 東藤綾の生家である。

 彼女はあれ・・でも相当な名家の出身であり“令嬢”と言うに相応しい生まれの少女だった。

 佐島も佐島で、いい所の出自であるのだが、それはさておき、彼女は自転車から降りると門の右横にあるインターフォンを押した。

 すると、聞き慣れた使用人の声がスピーカーから鳴り響く。

『これは、莉緒様。少々、お待ちください』

 しばらくすると、格子の門扉が自動的に開き始める。

 佐島はインターフォンのカメラに向かって、ひらひらと右手を振るとクロスバイクを引いて、東藤邸の敷地に足を踏み入れた。




 庭園と称しても問題のない庭先に沿って横たわる長い縁側を勝手知ったる様子で進む佐島。

 その奥に並んだ障子戸を開けると、独特なセンスを感じさせる和室が広がっていた。

 基本的には大正モダン的な調度類で、小綺麗にまとめられてはいる。

 しかし、隅っこに転がるダンベルを始めとしたトレーニング器具や、漆塗うるしぬりの茶箪笥に並んだプロテインなどの各種サプリメント、更に床の間の壁には『桜井梨沙』という、目的のよくわからない草書が飾られている。

 東藤綾の私室であった。

 その旅館の宴会場ほどはありそうな部屋の中央には赤絨毯あかじゅうたんが敷かれており、英国風の古めかしい応接があった。

 そこには既に、お茶や菓子箱などが準備されており、部屋着姿の東藤綾が革張りの椅子に腰を落ち着けていた。

「莉緒……来てくれたのね」

 東藤は立ちあがり、佐島を招き入れる。

「どうしたの? ゴキブリとか鼠が出たなら使用人の方に頼んでよ、アヤちゃん」

「そうじゃないの、莉緒。とりあえず話を聞いてよ」

「うんうん、なになに?」

 二人は応接へと移動して、向かい合って座る。

「……実は、最近、同じ夢ばかり見るの」

「同じ夢……?」

 佐島は菓子箱からマドレーヌを一つ摘まんで口元に運ぶ。

「どれくらい前から……?」

 その質問に東藤は視線を上にして、記憶を手繰たぐる。

「うーん……初めて見たのは、一ヶ月前くらい? それから、たまーに、その夢を見るようになって、どんどん間隔が短くなっていって、三日前くらいから連続で同じ夢を見てる」

「ふうん」

 佐島は、ずずず……と、お茶をすする。甘味のある玉露ぎょくろであった。

「どんな夢?」

「えっとね……」と、言葉をたっぷりと選んだのちに東藤は語り出す。

 その夢は、最初は暗闇の中で、大勢の話し声と物音だけが聞こえるのだという。

「目を開けようとしても、開かない感じっていうのかな……?」

「その話し声は、どんな事を言ってるの?」

 と、佐島が促すと、東藤は再び記憶を反芻はんすうし口を開いた。

「何か、“ない”とか“盗まれた”とか……大勢の人が騒いでいて」

「盗まれた……ね」

 佐島は神妙な顔つきで、その言葉を繰り返す。

「それで、誰かが“タサブロウがいねえ”って。それで違う人が“今朝早く、クサズに行くって村を出た”って」

「クサズ? 草津じゃなくて?」

 佐島の問いに東藤は頷く。

「クサツ? うーん……グザズだったかも。兎に角、そんな会話のあと、誰かが“盗んだのはタサブロウに違いねえ!”とか言い出して……」

「ふーん……」

 と、思案顔の佐島。

 東藤は更に話を続ける。

「それで、嗄れたおばあちゃんの声で“これでは、ナガスネサマ・・・・・・を鎮めらんねえ”って聞こえてきて」

「ナガスネサマ?」

「そう。莉緒、ナガスネサマって何?」

「さあ。私に聞かれても……」

 佐島は苦笑して肩をすくめた。

 東藤はしょんぼりと肩を落とし、

「物知りの莉緒でも知らないか……」

 すると、佐島がマドレーヌをもぐもぐとやりながら声をあげる。

「ほれで、どほしたの?」

「そこで、夢の中で、私は目を開けるんだけど……」

「夢の中で? 目覚めた訳じゃないのね?」

 東藤は頷く。

「そうすると、いつの間にか、あの蔵の前に立ってて……」

「蔵?」

 首を傾げる佐島。

 東藤は立ちあがり、縁側に面した障子戸を開けた。そして、佐島の方を見ながら庭先を指差す。

「あの蔵」

 それは、よく手入れをされた松の大樹の向こう側。

 この東藤邸の敷地内に三つある蔵のうちの一つであった。

「あそこ?」

 佐島も立ちあがり、戸口へと向かう。

「そう。あの蔵……」

 東藤が不安げな眼差しで、その陰気な蔵を見つめる。

 佐島の記憶では、幼い頃にこの東藤邸の敷地内で遊んだとき、大人たちから散々、“蔵には入ってはならない”と言い聞かされた覚えがあった。


 その理由は“お化けが出るから”


 それは、単なる幼子へのおどし文句だったのだろうか。

 佐島は、ごくりと喉を鳴らした。

 そのまま、東藤が夢の続きを口にする。

「それで、あの蔵の扉が開いていて、私は中に入るの。中は真っ暗なんだけど、窓から月明かりが射していて……」

「それで?」

「私は二階へ昇るんだけど、そうしたら、奥の方に誰かが立っているの」

「誰? 知ってる人?」

 東藤は首を横に振る。

「知らないお婆さん。白い着物を着た」

「それって……」

 生きている人なの……という言葉を寸前で飲み込む佐島。それを聞いてはいけない気がした。背筋を怖気おぞけが這いずり、思わず顔をしかめる。

 東藤は更に話を続ける。

「それで、そのお婆さんが、古い大きな箱を指差して、私の方を見るの」

「それで……?」

 固唾かたずを飲み込む佐島。しかし、東藤は……。

「そこで、いつも、朝になって起きるんだけど……」

 と、言って語り終える。

「……それで、終わり?」

「それで、終わり」

 佐島は蔵の方を見ながら「うーん」とうなる。

 確かに不気味な夢ではあるが、訳がわからない。

「……で、アヤちゃんはどうしたいの?」

 流石に“同じ夢を見るのを止めて欲しい”とお願いされても無理な相談である。そんなものはカウンセラーか何かの仕事だ。

 東藤は少しだけ躊躇ためらい気味に、そのお願いを口に出す。

「私と一緒にあの蔵の中を確かめて欲しいの。おばあさんの指していた箱が本当にあるのかどうか……あったとしたら中身は何なのか」

「あー、なるほどね」

 佐島は得心して頷き、気安い笑顔を浮かべる。

「いいよ。別に」

「本当!? やった!」

 と、無邪気な笑みを浮かべる東藤だった。

「でも、アヤちゃん」

「何?」

「あの蔵、入っていいの?」

 佐島の当然の疑問に東藤は首を横に振る。

「たぶん、怒られる。でも、今日はお爺様もお婆様もいないし、パパとママも忙しいから」

「あー、そういう事ね」

 佐島は呆れ顔をした。そんな彼女に東藤が小動物染みた困り顔で問う。

「駄目?」

 佐島は、ぽん、と東藤の頭に手を措いた。

「いいよ。やろう」

 あの蔵がまったくの赤の他人の持ち物ならば躊躇ちゅうちょするところであるが、これならば不法侵入に問われる事もないだろう。

「鍵は?」

「待ってて。今、取ってくる」

 東藤は縁側に出ると、パタパタ走り去ってゆく。

 その後ろ姿が見えなくなってから、佐島は再びくだんの蔵へと目線を這わせた。

 どうせ、夢は夢だ。大した意味などない。

 このときは、そう思っていた。

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