【11】二次元嫁


 二〇〇六年の八月十三日 

「はあ……はあ……はあ……」

 自宅玄関に駆け込んだ杉川正嗣は、呼吸を荒げながらひざに両手を突いた。自然と涙が溢れる。

 ただでさえ、ずっと両親に迷惑をかけているというのに、ついつい頭に血が昇って手を出してしまった。

 あの島舘の頭部が縁石にぶつかったときの音……。

 そして、真っ白に裏返る両眼と、痙攣けいれんする四肢……。

 彼は生きているのだろうか。

 どちらにしろ、自分は犯罪者だ。ただで済む訳がない。

 杉川の心は罪悪感と未来への絶望によって、どん底まで沈み込んでいた。その彼がくだした結論は……。


 ……もう、死ぬしかない。


 杉川はサンダルを脱ぎ散らかし、自分の部屋へと向かう。

 両親は既に寝ているようだった。家の中は静まり返り、真っ暗だった。

 ともあれ、杉川は急いで罪をつぐなうための準備をし始める。

 自分の部屋のカーテンレールに延長コードを結び、その先端に輪を作って首へとかけた。

 そして、窓際の机の縁に座る。

「ごめん……ごめん……」

 大好きだった幼馴染みにフラれ、友だちだと思っていた島舘に裏切られ、彼を殺してしまった。

 ろくでもない、くだらない人生だった。

 両親は穀潰ごくつぶしの息子が死んで清々とする事だろう。

 そして、あの小説・・・・の続きがつづられる事は二度とない。それだけが心残りだった。

 しかし、こうなってしまった今となっては、あの物語が誰かの目に止まって、その人の心に残ってくれれば、それだけで満足だった。

 ただ、あの・・ヒロインのような・・・・・・・・女の子・・・と出会って、恋をして結ばれてみたかった。

 来世があれば期待したいところだが、犯罪者である自分は地獄に落ちる事だろう。

 何にせよ、やはり絶望しかない。

 そこまで考えて、杉川は自嘲じちょう諦感ていかんの籠った薄暗い笑みを浮かべた。

「さよなら、お父さん、お母さん、そして、まどか・・・……」

 その言葉を最後に杉川は机の縁から飛び降りた。 




「キズダメ……? あたしは、循がそんなラノベを読んでいた事がびっくりだよ」

 桜井がもっともな疑問をていした。

「ただのラブコメなら、私も興味は抱かなかったわ」

「じゃあ、やっぱり頭のおかしいやつなんだ?」

「そうね。この作品はアニメ化もされた人気作だったのだけれど、十二巻が“世紀の糞展開”または“読むと発狂する”などと、ネットで大炎上したのよ。その業火は十二巻が発売されて一年半近くが経つ現在もくすぶり続けているわ」

「へえ。それはまたエキサイティングな作品なんだね」

「それで、あまりの酷い炎上具合にどんなものかと興味を示して、読んだことがあったのよ」

「……で、どうだったのさ?」

「まったくネットの評判通りだったわ。途中でタイトルがよく似た別作品かと思って何度か表紙を確認したほどよ」

「それは、よほどだね」

 と、呆れた様子で肩をすくめる桜井。

 そして、茅野がタブレットを指でなぞり始める。

「それで、今、思い出したんだけれど、『キズダメ』のヒロインの“阿僧祇あそうぎなゆ”が、これよ……」

 その画面に表示されたキャライラストを見て、桜井は驚愕した。

「これって……」

 阿僧祇なゆと呼ばれるキャラは黒髪のツーサイドアップで、レースに彩られた白いゴスロリドレスを着ていた。

「あのさ、循」

「何かしら?」

「このキャラ、何となく雰囲気が渋谷さんに似てない?」

「ええ。私もそう思うわ」

 茅野は首肯する。そして……。

「更に、この『コーンフラワーの花束を君に』で阿僧祇なゆに当たるキャラクターが、白鴉まどか・・・という名前なのよ」

「まどか……渋谷さんと同じ名前なのは偶然なのかな?」

「恐らくは……」と、茅野。

「じゃあ、杉川さんをこの世に縛りつけている原因は、この小説なのかな?」

「どうかしらね……」

 と、思案顔を浮かべる茅野。

「何にせよ、渋谷さんは、このヒロインの身代わりという事なのでしょうね」

「でも、それだと難しいね。渋谷さんに腹パンしても駄目だろうし」

 桜井が眉間にしわを寄せて両腕を組み合わせる。

 そして、おもむろに、ぽん……と両手を打ち合わせた。

「あ、閃いた」

「何かしら?」

「渋谷さんにツーサイドアップをやめさせて、たくさん食わせて太らせる。髪型も、モヒカンとかにしてさ……そうすれば、杉川さんも幻滅して成仏するんじゃないかな? いっそ、市役所で名前も変えてもらおう」

「それでは、渋谷さんの人生が終わってしまうわ」

「……そっかー」

 桜井は、がっかりした様子で肩を落とした。

 しかし、そこで茅野は悪魔のように微笑む。

「大丈夫よ。そんな事をしなくても、恐らく杉川さんの霊を何とかできるわ」

「お。だいたい解った感じ?」

「そうね。ちょっと、九尾先生に、関係者の安全性・・・・・・・を確認しなければならないのと、下準備が必要だけれど、たぶん上手くいくと思うわ」

 そう言って茅野は、リュックの中からドライバーセットを取り出す。

「今からパソコンのハードディスクをコピーするわ。梨沙さんは、アルバムか何かを探して。彼の顔写真が欲しい」

「らじゃー」

 そのあと、桜井と茅野は杉川邸を抜け出して帰路に着いた。



 それは、二〇一五年の春先の事。

 寺井秀太が、その作品に行き着いたのは、まったくの偶然だった。

 そのブログ制作サービスは、日本におけるネット文化の黎明期れいめいきであった二〇〇四年頃に立ちあげられた。

 しかし、ネットコミュニティの中心がブログから他のSNSへと移行するに従い、過疎化が進み、あと一ヶ月で閉鎖されるところであった。

 閉鎖後、そのサービスのブログはすべて読めなくなり、すべてのデータは一定期間保存されたのちに破棄される。その事態を回避するには、移転ツールにて他のサービスにデータを移さなければならない。

 そんな、取り壊される寸前の廃屋のようなサービスの中で、ひっそりと連載されていたその小説は、寺井の錆びついた心に衝撃をもたらした。

 どうせくだらない美少女ライトノベルだろうと、意地悪な気持ちで最初は読み進めた。

 適当な場所まで読んで、批評コメントを残してやろう。

 そう思っていた。

 この頃の寺井は、まったく小説を書かない癖にいっぱしの物書きを気取るだけの存在となっていた。

 しかし、その作品は、そんな彼のひねくれた心をも浄化してしまう。

 卓越たくえつした心理描写と、胸を打つ登場人物たちのやり取り……。

 平坦な日常を淡々と描いているようで、しっかりと起伏のある絶妙な展開……。

 それは、ありがちな美少女ライトノベルの皮を被った深い癒しの物語であるように、寺井には思えた。

 紛れもない傑作。

 これぞ、本物のライトノベル。

 その確信を抱き顔をあげてみると、窓の外が既に暗くなっていた。

 自分が昼過ぎからずっと自宅のノートパソコンに向かって、その物語に没頭していた事に気がつき、寺井は愕然がくぜんとし、興奮した。

 そして、こんな物語が埋もれて世の中に出ていない事が、現在の出版業界の腐敗を物語っている証拠であるような気がした。

「何なんだ、この作者は……」

 ブログの管理者の名前は『矢車菊』

 それ以外、プロフィールには、何も書かれていない。ざっと見た限りでは小説の本文の他に、作者自身の言葉らしきものも書かれていない。

 そして、ブログの更新日を確認してみると、二〇〇六年の八月十二日を境にぴたりと止まっている。もう九年も前の事だった。

 それを知ったとき、悪魔が寺井の耳元で囁く。

 この物語を自分名義で発表すれば……。


 “盗作”


 物書きが絶対にやってはいけない事。堕ちてはいけない場所。

 しかし、彼はすぐに思い直す。

 そう。

 こんなのは、みんなやってる。

 テンプレなどと触りのよい言葉で、やっている事は単なる過去の作品の猿真似ではないか。

 みんなルールに反している。オリジナリティなどというものはどこにもない。

 ならば、自分だって少しぐらいずる・・をしても許されるはずだ。

 それに、これはライトノベル業界のためである。

 この素晴らしい本物のライトノベルで、業界の腐敗を駆逐する。

 その使命が自分にはあるのだと、彼は自己正当化を済ませた。

 どうせ九年も経っているのだから、作者だって書いた事すら忘れている。

 閲覧者もほとんどいない。

 誰もこの作品の存在を覚えていない。

 そして、この作品がネット上で公開されていた事実は、もうすぐで消える。

 寺井は、そのブログのテキストを丸々とコピーして自分のパソコンに保存した。




 そして一ヶ月後。

 くだんの作品が、どこにも移転されていない事を入念に確認し、寺井は締切間近だったFW文庫大賞に固有名詞やタイトルだけを変えた物語の序盤を、自分の作品として応募した。

 結果『コーンフラワーの花束を君に』改め『傷ついた俺をひたすら甘やかすだけの堕女神ちゃん』は大賞を受賞する。

 かくして、寺井秀太は念願の作家デビューを果たしたのだった。

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