【07】反転する構図


 八月二日八時四十六分――。


 桜井梨沙と茅野循は屋敷の棟門を潜り抜け、玄関前に置かれた生首に近づく。

「首だねえ」

「首ね」

 それはオタクサークル『こっぺりあ』の池田俊の生首であった。近くに彼のかけていた銀縁眼鏡のフレームのみが落ちている。

「あの河原にあったテントの持ち主かしら?」

 茅野はビニール手袋を装着し、しゃがみ込む。生首をごろりと転がした。

 すると、たかっていた蝿が不愉快な羽音を立てて舞いあがる。

 茅野は特に気にした素振りも見せず、冷静な表情で目蓋を押し開けたり、口腔こうこうのぞき込んだりし始めた。

「……死因は不明。死んで一日くらいは経っていると思うけれど」

 そう言って、次に脛部けいぶの切断面を観察する。

「……鉈か斧のような重みのある刃物で、一気に切断したみたいね」

「つまり、道具を使える知能がある。あのお猿さんかな?」

 桜井の言葉に茅野は首を横に振る。

「まだ何ともいえない」

「そか」と、頷く桜井。

 そこで茅野が表情を曇らせる。

「……ただ、チンパンジー程度の知能があるなら、刃物くらい扱えると考えても間違いはないわ」

「厄介な敵だね」

「あの足跡から、猿の身長が約百六十センチだとして、その半分のサイズのチンパンジーでも、成人男性の倍以上の握力と腕力があると言われている」

「つまり、掴まれた瞬間に終わる。ぐしゃぐしゃだね」

「ただ、もしも相手が二足歩行で、木の上ではなく地面で生活していたとしたら、握力や腕力は、同様のサイズの猿ほどではないかもしれない」

「……でも、油断はできない。熊さんよりはだいぶマシだけど、たぶん、すてごろ・・・・だと・・、流石に勝てない」

 桜井は眉をハの字にして、がっくりと肩を落とした。

 彼女は戦闘狂であるが、自分の実力が解らない馬鹿ではない。勝てない敵には無闇に突っ込まず、退く分別は兼ね備えている。

「やはり、あたしも普通の女子高生に過ぎないからねえ。まだまだ、修行を積まないと……」

「まあ、仕方がないわ。そもそも、普通の人間と野獣とじゃあ、基本的なスペックが違いすぎるもの」

「そだね。どうぶつは、みんな強いよ」

 たぐまれなる戦闘能力。そして、現代の日本で彼女ほど実戦を経験している女子高生は、そういないだろう。

 天賦てんぷの才と経験。

 その両方を合わせ持った彼女であっても、今回の相手は厳しいと言わざるを得ない。

「でも、人間には知恵がある。梨沙さんは、これを使って」

 そう言って、茅野はリュックに差してあったスタンロッドを抜き放つ。それを桜井に手渡す。

「うん。でも、循は……」

 スタンロッドを受け取りつつ、茅野に尋ねる。

「私には、これがあるわ」

 と、言いながら、防犯用のペッパースプレーをリュックから取り出す。

「まあ、武器があるといっても大猿と遭遇したときの基本方針は、防御と撤退を優先で」

「らじゃー」と、桜井は返事をして、スタンロッドの石突きについたベルトの輪へと右手首を通す。

「あと投擲とうてきにも注意した方がいいわね。シエラレオネ共和国の“殺人チンパンジー”ブルーノは気に食わない人間に対して、糞や石を投げつけて正確に命中させたというわ」

「うんこは嫌だねえ……」

 と、桜井は、いかにも普通の女子高生らしい調子で苦笑した。

 しかし、このあと、茅野は思い知る事となる。

 桜井梨沙という天才の真の恐ろしさを……。




 八月一日十六時四十二分――。


 柊明日菜は池田と共に、大声を出しながら三十分近く堤川を探し回ったが、けっきょく体力を無駄にしただけだった。

 そろそろ、時間が迫ってきたので集合場所に戻ろうとする。

 気疲れに肉体的な疲労が合わさって、もう柊はへとへとだった。

 こんな事ならば、来なければよかった……。

 柊は心の底から後悔していた。

 コロナ禍のせいで『こっぺりあ』は実質的に活動休止状態にあった。

 サークルでの特別扱いや、人間関係にうんざりしていたので、このままフェードアウトするつもりだった。

 そんなとき、今回のキャンプの話が持ちあがる。

 もちろん、行くつもりなんか毛頭なかった。

 しかし、池田たちのみならず、あの自分を嫌っていたはずの野島からも、是非にと熱心に誘われてしまう。

 柊は自己主張が苦手な性格である事と、前沢に関する野島への負い目、更に何だかんだとコロナ禍による巣籠もりで人恋しさを感じていた事も大きかった――。

「姫、姫……」

 これで彼らとの関係も最後にしようと、迷った末に参加を決めたのだが……。

「どうしたんです? ぼんやりして……」

 隣を歩く池田に話しかけられていた事に気がつき、はっとする柊。

「いや……ちょっと、疲れて」

「大丈夫ですか……?」

 池田が気遣わしげに柊の顔をのぞき込む。

 すると、その二人の前方だった。

 待ち合わせ場所の砂利敷きの広場が見えてくる。そこには、巨漢の森山の姿があった。

 しかし、一緒にいたはずの前沢が見当たらない。森山一人である。

 しかも、森山は、なぜかスマホの画面をのぞき込みながら、必死に指を動かしている。

 それを目にした柊はいぶかしげに眉をひそめた。

 ネットは使えないのではなかったのか。彼はいったい何をやっているのだろうか……。

 おもむろに池田が大きく舌打ちをした。

「おい、森山氏! 前沢氏は!?」

 その声で、森山は視線をあげて、池田と柊の方へと小走りでやって来る。

「やめよう。やっぱり、計画は中止にしよう!」

「計画……? 何の?」

 きょとんとした顔で、柊は池田と森山の顔を見渡す。

 池田は再び苦々しい顔で、駆け寄ってきた森山の右腿みぎももを蹴りつける。

「お前、何言ってんだよッ!」

 その普段の彼からは考えられない粗暴な態度に、柊は面食らう。

 すると、森山が、しどろもどろな調子で言葉を発した。

「い、いや……さ、さっき、見たんだ」

 再び苛立たしげに舌を打つ池田。

「何を見たって言うんだよ!」

「茂みの向こうに何かがいた。ぼくを見て笑ってた。この村、本当に何かがいる。もう帰ろう」

「はあ……」と、池田はうっそりした表情で嘆息たんそくすると、ショルダーポーチを開けた。

「ねえ、いったいさっきから、何の話を……」

 と、柊が質問を発したところで、池田がポーチから取り出したスタンガンを彼女の胸に押し当てた。

「えっ、ちょっ……いっ!」

 ばちり、と青白い閃光が瞬く。

 激痛と共に全身の力が抜けて、地面に崩れ落ちる柊。

 地べたで虫螻むしけらのようにもがいていると、頭上から池田と森山のやり取りが聞こえた。

「馬鹿か! 今さら、やめられる訳がねーだろッ!」

「ごめん……でも」

「どうせ、見間違いだよ。オメーの」

「いや、でも、確かに……」

「うっせえな。兎に角、こいつも本物の姫・・・・のところに運ぶぞ」

「う、うん……」

 そこで、柊は森山に両脇を抱えられて上半身を起こされた。その首に彼の太く汗臭い右腕が巻きつく。

 彼女の記憶は、そこで途切れた――

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