【11】追憶


 二〇二〇年四月六日の夜だった。

 岡村十和子はベッドの縁に腰をかけて、スマホで最後の言葉を投稿し、魂が抜け出そうなぐらい大きな溜め息を吐いて天井を見あげた。

 そして、天使の輪のように白く輝く蛍光灯を見つめながら考える。

 自分のこれまでの人生は、いったい何だったのか……。

 岡村は父親の事が大好きだった。父親である彼を誰よりも敬愛していた。

 その思いを自覚し始めたのは、まだ幼い頃だった。

 あるとき、ふとした切っ掛けで自分には母親がいないのだという事に気がついた。そして母親というのは父親にとって最愛の存在であると知った。

 その愛がなければ、自分がこの世に存在しないのだとも……。

 “最愛の存在”を亡くしても笑顔を絶やさず、自らに無償の愛をそそいでくれる父親の事を、岡村は何よりも凄いと思った。

 きっと、自分なら何年経っても父のように笑う事などできはしないだろう。

 自分にとっての最愛である父が死んだ事を想像しただけで涙が止まらなくなった。

 だから岡村は心底、彼の事を尊敬した。

 このときから、岡村にとって、父親に喜んでもらえる事がもっとも優先すべき事となる。

 彼女はすべての物事において、父親の言葉に従った。

 自分の好みよりも父の好み、自分の都合よりも父親の都合……。

 周囲の大人たちも“よい子”だと誉めてくれたし、その“よい子”を男手一つで育てあげた父親を称賛しょうさんした。それが何よりも嬉しくて仕方がなかった。

 ときには我慢を強いられる事もあった。

 本当は無理して藤見女子になど進学したくはなかったし、美術部よりも漫画研究会に入りたかった。

 髪の毛だって染めてみたかったし、年相応にお化粧もしたかった。

 たまには自分が可愛いと思う服を着たかったし、自分の食べたいものを好きなだけ食べたかった。

 男の子と恋愛だってしてみたかった。

 しかし、父親からの許可が降りなかったこれらのすべてを岡村十和子は我慢した。

 すべては父親に喜んでもらいたかったから……。

 だが、ここまで、自らのすべてを捧げても、父親は自分の事を愛してくれていた訳ではなかったという事に気がついた。

 それを知ったとき岡村十和子は人生に絶望し、死を選ぶ事にした。

 母親の享年と同じ十八歳になってから、あの鴬色うぐいすいろと白のワンピースを着て……。

 思えば父親が倒れたあの日、教室で自分とそっくりな彼女を見た瞬間に、こうなる事は運命付けられていた……そんな気がして岡村は力なく笑い、立ちあがる。

 クローゼットの前に立って、縄を首に引っかけた。

 自分が死ねば父親はきっとその原因を探ろうとするだろう。

 そして、スマホの履歴から個人サイトに辿り着き、あの遺言に行きつくはずだ。

 そのとき、ずっと自分の愛を裏切り続けてきた父親あの人は、どんな顔をするのだろうか……。

 岡村十和子は悪戯っ子のような笑みを浮かべ、壁掛け時計が四月七日の午前零時を指した瞬間に首をくくった――






 『遺言』


 2020年4月6日23時55分投稿


 お父さんは、私を愛している訳ではなかった。だから死にます。さようなら。



 その文面を何とも言えない表情で見つめる二人。

「まだこれだけじゃ、何とも言えないわ。取り合えず昔のエントリーをさかのぼってみましょう」

 茅野がマウスを動かしながら言った。

 最後のエントリーの一つ前は、ずいぶんと間隔が開いており、投稿された日付は二月二十三日の二十三時四分であった。

 タイトルは『無題』

「……これ、西木さんがおにぎり坂で、岡村さんを見た日だ」

 桜井が目を丸くする。

 茅野は「そのようね」と答え、マウスを動かした。




 『無題』


 2020年2月23日23時4分投稿


 母の墓参りに行った。

 それですべて解った。

 やはり、あの日、教室で見たのは私のドッペルゲンガーなどではなかった。

 私はゴッホだったのだ。

 父親に愛されていなかった。

 私のこれまでの人生はいったい何だったのだろうか。




「ドッペルゲンガーって、あれだよね? 自分の分身……」

「ええ。そうね」と茅野は首肯して、いつも通り解説する。

「自分自身の姿を見る怪異で、正体については諸説あるわ。ただ、自分のドッペルゲンガーを見た者は、死や破滅が訪れると言われている」

「死……じゃあ、岡村さんはドッペルゲンガーに殺された……訳じゃないよね。自分で“ドッペルゲンガーではなかった”って書いてるし」

 桜井の言葉に茅野が頷いた。

「まあ、それはひとまず置いておくにしても、このエントリーにはかなり気になる点が多いわね」

「うん。母親の墓参りって、あの霊園だよね? じゃあ、岡村さんは西木さんに目撃されたあの日、お母さんのお墓参りに行ってたんだね。あそこには、お母さんのお墓もあるんだ」

「そのようね。そして、この“私はゴッホだった”という一文」

「うん。“私はゴッホみたいに才能がある”的な、厨二病……じゃないよね?」

「恐らくは……」と鹿爪らしく答え、茅野は画面を見つめて思案顔を浮かべた。そして、マウスを動かし始める。

「取り合えず、次のエントリーに遡ってみましょう」

 二月二十三日の一つ前は二月十六日だった。

 タイトルは、またも『無題』




 『無題』


 2020年2月16日23時17分投稿


 この日、どうしても気になって、お父さんの部屋で母に関するものを探した。

 お父さんが入院している今しかチャンスはない。そう思った。

 結果、大夫原カトリック霊園の末代まつだい使用しよう権利書けんりしょを見つけた。

 ここにたぶんお母さんのお墓がある。

 来週の日曜日に行ってみようと思う。




「……これ、おかしくない?」

 その文面を読んだ桜井が眉をひそめた。

「だって、死んだお母さんのお墓のある場所を知らないなんてさあ……」

「まあカトリック教徒は、死者を弔うときは墓参りより教会で祈るのが一般的らしいけれど……。でも、もしかすると、岡村さんは母親の話をお父さんからほとんど聞かされていなかった可能性が高いわね。そして、父親に聞かずにわざわざ自分で突き止めようとしていたという事は、岡村家では死んだ母親についての話題は禁忌タブーだったのかもしれないわ」

「……岡村さんは、お母さんのお墓で何を見たんだろうね」

 その桜井の提示した疑問に茅野は画面を見つめたまま答える。

「何となく見えてはきたけれど……」

「マジで!?」

 桜井は目を見開いて驚く。

 しかし、茅野は「まだピースが足りないわ」と冷静に言って、マウスを動かした。

 更にエントリーを遡る。

 次の投稿は、二月五日だった。

 タイトルは『ドッペルゲンガー』

 かちり……と、マウスをクリックする音が鳴り響く。




 『ドッペルゲンガー』


 2020年2月5日22時47分投稿


 今日、お父さんが倒れた。その報せを雨宮先生から聞かされる前に、教室でドッペルゲンガーを見た。

 あの鴬色と白のワンピースを着ていた。

 後から思い返してみると、あれはドッペルゲンガーなのではなく、私のお母さんだったのではないか。


 顔も名前も知らない私のお母さん。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る