【10】遺言


 桜井と茅野は岡村宅をあとにすると、川沿いの古い住宅街の路地を歩く。

「それにしても、お父さんの最後の言葉……どういう意味だったんだろうね?」


 『今度は、娘のいるときにでも遊びにおいで』


 茅野は肩をすくめ、かぶりを振った。

「岡村さんが生きていると思い込んでる……訳ではなさそうだし」

「うん。そだね」

 と、桜井は頷く。

 玄関で茅野が仏壇に手を合わせたいむねを告げたあと、進はしばし考え込んでから、こう言った。


 『ああ……十和子の 』


 そして、そのあとに彼女の墓の所在を尋ねたときも、特に疑問を挟まずに霊園の名前を答えていた。

「つまり、彼は娘である岡村十和子が、死んでいる事を理解している。にも関わらず、帰り際の言葉や、あの三和土たたきに並んだ女物の靴など、まるで岡村さんが生きているかのような言動を取っている」

「うーん。今回は腹パンで解決という訳にはいかなそうだね」

 と、桜井が腕組みをして眉間にしわを寄せる。そして、実も蓋もない結論を口した。

「娘さんが死んでおかしくなっちゃったとか……」

「だったら、かなり気の毒ではあるけれど、狂人には狂人の論理というものが必ずあるわ。“あの人は狂っている” それはよいとしても、“では、どう狂っているのか” それが問題となってくるわ」

「なるほど」

 と、得心した様子で頷く桜井。茅野は更に言葉を続ける。

「それと、やはり気になるのは、あの公園にあった霊園ね」

「そだね。そう言えば、そもそも、何で岡村さんは、西木さんに目撃されたとき、あの公園にいたんだろうね? まさか、将来の自分のお墓を下調べしていたなんて事はないだろうし……」

「それに関しては、少し思い当たる事があるわ。ついでに、十和子さんの日記のパスワードもね。たぶん、これじゃないかという候補を閃いたわ」

「お、マジで!?」

「でも、その前に、二宮健太の遺体発見現場を見ておきたい」

 そう茅野が言った直後、角を曲がった先の道に、土手の上へと登る石段が見えた。

 二人はその石段を登ると、土手の上の砂利道を歩き、遺体発見現場を目指したのだった。



 

 二宮健太の一件について、桜井と茅野が報道などから知り得ている情報は以下の通りとなる。

 事件の発覚は七月二十六日の十八時頃。

 付近に住む男性が犬の散歩で土手の上を歩いていたところ、飼い犬が河川の方に向かって吠え始めた。

 男性は何事かと、そちらの方をよく見てみると、土手の下に生い茂る雑草の中で、誰かが倒れている事に気がついた。

 それが二宮健太であった。

 男性はすぐに持っていたスマホで救急と警察に通報した。

 その後の警察の調べで、二宮の死因は頭部の打撲による脳挫傷のうざしょうである事が判明した。

 更に死亡推定時刻は、その日の早朝らしい。

 凶器に使われたのは、遺体の近くに落ちていた三キロ程度のブロック片であった。

 また現場付近からは、犯人のものと思われる二十八センチの靴跡が発見された。

「……足跡の大きさからざっと計算すると、犯人は身長百八十センチ前後の大柄な男ね」

「体重差が大きい相手は油断大敵だからね。手加減はしないよ」

 既に桜井は犯人との戦闘を見据えていた。

「それは兎も角……」

 と、桜井は周囲を見渡して嘆息する。

「流石にもう何もないね……」

 周囲には背の高い雑草が生い茂っている。既に空は朱色に染まり、その向こうから宵の口がやって来ようとしていた。

 何の変哲もない河原である。

 しかし、茅野は満足げに微笑んで前方のやぶを指差す。そこには、細かい棘に被われた実を無数につけた雑草が群生していた。

「見て。梨沙さん」

「ん?」

「あそこら辺に生えているのは、藪虱やぶしらみよ」

「ああ。実が服に着くキモいやつだね。でも、それがどうしたの?」

「ほら、これを見て」

 そう言って、茅野がポケットから取り出したのは、藪虱の実であった。

「これが、岡村さんの家の三和土たたきに落ちていたわ。きっと、家にあがるときに、服に着いているのに気がついて払ったのね。それが、そのままになっていた」

「えっ。じゃあ……」

 桜井は藪虱の群を見つめる。

「藪虱は、どこにでも生えているから、岡村さんの家で拾った種が、この場所でついた物かどうかは解らないわ」

「ああ……そうか」

「でも、犯人は大柄であるという点や、そもそもの殺害の動機が岡村さんの死に関係があるとするならば、彼女のお父さんが一気に怪しくなるわね」

 すると、そこで桜井が、薄暗くなり始めた虚空に向かってジャブを連打し出した。

「じゃあ、今からやっちゃう?」

「待って、梨沙さん」

 相棒の血気盛んな様子に苦笑する茅野だった。

「もう少し、確証が欲しいわ。決定的な物証は無理にしても、なぜ、二宮健太は殺されなければならなかったのか、岡村さんのお父さんに彼を殺す動機があったのか、そこだけでも突き止めたい」

 そして、茅野は視線をあげて橋の上を行き来する車の列を眺めながら言った。

「たぶん、その答えは岡村さんの日記の中にあるわ。そんな気がする」

「ホワイダニットか……」

 と、桜井が難しげな表情で言う。

「取り合えず、いったん帰りましょう。それで、今日は梨沙さんに晩御飯を頼みたいのだけれど」

「うん、いいよ」

「それで、ご飯のあとに、もう一度、あの日記を見れるかどうか試してみましょう」

「りょうかーい」

 こうして、二人はいったん帰路に着いた。




 二人は藤見市に戻るスーパーで食材を購入し、駅裏の杉沢町の外れにある茅野邸へと向かう。

 そして、ひとまず茅野薫を交えて夕食を取った。因みにメニューは、本格的なバターチキンカレーであった。

 茅野循が隙を見てキャロライナ・リーパーの粉末を薫の皿にぶっかけようとし、寸前で阻止されるという一幕があったものの、滞りなくエネルギー補給を終えた二人は、例の岡村十和子の日記を調べる事にした。




 血のような赤で統一された悪趣味な調度品。

 棚に並ぶ不気味な品々や書籍……そして、一匹のまむしが瓶の中で虚ろな目つきをしながら漂っていた。

 茅野循の自室である。

 その部屋のあるじが椅子に腰をおろし、机の上のノートパソコンを立ちあげた。

 すぐに岡村十和子の個人サイト“とわこのへや”へと辿り着く。

 その様子を彼女の肩越しに見守るのは、桜井梨沙である。

「取り合えず、これで駄目ならお手あげね。完全に五里霧中よ」

 そう言って、茅野はスマホで何やら検索したあとで、パスワードの入力画面に英数字を打ち込んでゆく。


 『f373jh1298』


 決定ボタンを押すと、見事にロックが解除される。画面には各エントリーのタイトルが並んでいた。

 いちばん先頭の四月六日のタイトルは、そのものズバリ『遺言』であった。

「おお。正解。流石は循」

 その桜井の称賛を受けて茅野は肩の力を抜いて溜め息を吐く。

「運が良かったわ」

「……で、今の英数字は何なの?」

「F番号とJH番号よ」

「えふばんごう……? じぇいえいちばんごう……?」

「これは、ファン・ゴッホ美術館公認のウェブサイトで使われているカタログの番号ね。F373もJH1298も、あのプロフ画面の花魁の絵を示しているわ。この花魁は、岡村さんのお父さんがゴッホの作品の中で一番好きな絵だから、何か特別な意味があると思ったの」

「ふうん」と、相変わらず気のない相づちを打つ桜井。

「取り合えず四月六日を見てみましょう」

 

 茅野は四月六日のエントリーをクリックする。

 すると、岡村十和子の最後の言葉が画面に表示される。それは……。




 『遺言』


 2020年4月6日23時55分投稿


 お父さんは、私を愛している訳ではなかった。だから死にます。さようなら。

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