【07】遺作


 二〇二〇年七月二十八日。

 この日も夏らしくない陰鬱いんうつな雨が朝から降りしきっていた。

 桜井梨沙と茅野循は授業が終わると、いったん近くのコンビニへと向かい、お菓子を適当に買い込む。

 それから東棟四階の隅にある美術室へと向かった。

 戸を開けて、桜井が「失礼しまーす」と気の抜けた声を張りあげた。

 すると、中にいた数名の部員たちの視線が一斉に集まる。その瞳には明らかな戸惑いの色があった。

 あの桜井梨沙と茅野循がウチに何の用があるというのか……そんな戦々恐々とした思いが伝わってきた。

 空気が凍りつき、沈黙が雨音に塗り潰されてゆく……。

 その剣呑けんのんな雰囲気をうち破ったのは茅野であった。

「ちょっと、いいかしら?」

 すると、眼鏡におさげの三年生が、おっかなびっくり近づいてきた。

「あ、あの……何の用でしょうか?」

 同学年なのに敬語である。

 彼女は美術部の部長で澤井慧さわいけいという。彼女は桜井や茅野とクラスは別であった。ゆえに、ほとんど親交はない。

「少しお話させて欲しいのだけれど……」

 茅野がうかがい立てると、澤井は首の骨でも折れたかのようにカクカクと頷いた。

「え……ええ、もちろん! どうぞ、どうぞ」

「そんなに怖がらないでよ」

 と、桜井は苦笑して右手に持ったビニール袋を差し出す。

「はい、これ。差し入れのお菓子。みんなで食べて。美味しいよ」

「あ、ありがとうございます」

 澤井が女王陛下からお宝でも下賜かしされたかのように、大事にビニール袋を受け取った。

「さ、さ、どうぞ、こちらに……」

 と、教卓の前の作業台へと案内された。

 椅子に腰をおろし、台を挟んで澤井と向かい合う桜井と茅野。

 他の部員たちは、それぞれの作業へと既に戻っていた。油絵、水彩、アクリルガッシュなど、見渡せば個々のレベルはけっこう高い。

「それで、いったいどういったご用件でしょうか……」

 相変わらず澤井が、へりくだった調子で用件を訊いてきた。

 茅野は多少のやりにくさを感じながらも話を切り出す。

「岡村さんの話を聞きたいのだけれど……」

「岡村さんって、あの岡村十和子さん?」

「ええ」と茅野は首肯する。

 因みに桜井は、買ってきたポテトチップスの袋をテーブルの上でパーティ開けにして、パクつき始めていた。

「岡村さんね……」

 澤井が表情を曇らせる。やはり岡村との交流が途切れていた水嶋明子とは違い、最近まで同じ部活で活動していただけに、その口は重いようだった。

「ごめんなさい。不躾ぶしつけで」

 と、茅野は神妙な表情で謝ったのちに、嘘を吐いた。

「……岡村さんの親族に、彼女の学校での様子を聞かれて、それで色々な人に彼女の話を聞いて回っているの」

「それは、その……岡村さんが死んだ理由を調査しているみたいな?」

 澤井が、ぎょっとした様子で尋ねる。すると茅野は気安く見える笑みを浮かべて首を横に振った。

「そういう重い話ではないわ。岡村さん、家でも学校の話はぜんぜんしてなかったみたいで、それで、生前の彼女がどんな学校生活を送っていたのか知りたいらしいの。それだけよ」

「まあ、どうしても駄目なら、仕方がないけどさあ。できれば、差し障りのない範囲で教えて欲しいんだけど」

 桜井がポテトチップスをもぐもぐとやりながら言った。

 すると、澤井は意を決した様子でうなずく。そして、遥か遠い昔を懐かしむかのように、ゆっくりと語り始める。

「……とは言っても、私たちも、それほど岡村さんの事を知っている訳ではありません。彼女、いつも独りでしたから」

 茅野が作品製作にせいを出す部員たちを見渡してから問う。

「岡村さんは、どういう絵を描いていたのかしら?」

「うーん。普通の静物画とかですかね」

「技術的には、どうだったのかしら?」

 その問いに澤井は首を傾げてしばらく記憶を辿り……。

「まあ、普通ですかね……? 確か、まだ彼女の作品があったと思いますよ」

「見せてもらえるかしら?」

「はい。ちょっと、お待ちください……」

 と、言って澤井は椅子から立ちあがる。そのまま、教壇横の扉から美術準備室へと姿を消した。

 ……しばしの間、雨音と、パリパリという桜井がポテトチップスを噛る音だけが響き渡る。

 そうして、数分後だった。

 澤井が数枚のイラストボードを持ってくる。

「見つかったのは、これだけですね」

「ありがとう」

 茅野は、イラストボードを受け取る。

「どれ」と、桜井が横からのぞき込んだ。

 描かれている絵は澤井の言葉通り、何の変哲もない静物画ばかりであった。

 林檎、石膏像、美術室の窓越しの風景……すべてが、水彩のカラーペンで着色してある。

 それなりに上手く、特筆すべき点は特にない。もっと、言ってしまえば、岡村十和子の個性というものが感じられない。いかにも淡々としており、本人が乗り気で描いていないのは目に見えて明らかであった。

 桜井と茅野は、そこはかとない違和感に眉をひそめながら、岡村十和子の作品を確認していった。

 そうして、最後の一枚に辿り着く。それは、これまでの作品と大きく毛色が異なっていた。

「これは……」

 茅野が視線をあげる。

「それが、最後の作品ですね。彼女の……」

 澤井が伏し目がちに微笑む。

 それは、漫画のキャラっぽいタッチの人物画であった。

 長い黒髪。

 鶯色と白の・・・・・ワンピースを・・・・・・着ている少女・・・・・・……。

「岡村さん、こういうイラストっぽい絵も描けるみたいでしたね。因みにその少女は、岡村さん自身だそうです」

「ふうん」

 桜井がぼんやりとした返事をして、ポテトチップスを一口噛った。素人目に見ても、こちらのイラストっぽい絵の方が伸びやかでよく描けているように思えた。

 茅野も同様の感想を抱いたようで……。

「こっちの方がいいわね」

 と、率直な評価をくだした。澤井も頷き、

「私もそう思います。そういえば、彼女、漫画とかも描いていたみたいですよ」

「それは、どこかで読めたりしないのかしら?」

 と、茅野が聞くと、澤井はスマホを取り出して指を這わせ始めた。

「確か……個人サイトにアップしているって……あった。これだ」

「あとで、じっくりと見たいからURLだけ教えて頂戴ちょうだい

「はい。わかりました……」

 澤井から岡村の個人サイトのURLを教えてもらう茅野。

 そして、桜井が、ぽつりと素朴な疑問を漏らす。

「岡村さんは、何で漫研に入らなかったんだろうね」

 この藤女子には美術部だけではなく、漫画研究会も存在する。それなりに歴史のある部で活動も盛んだった。部員数もかなり多い。

「私も、それ、疑問に思った事があって、彼女に聞いた事があるんです。何で、漫研じゃなくて美術部に入ったのかって……」

 澤井が苦笑しながら言った。

「何て言ってたの?」

 桜井に促され澤井は答える。


お父さんに・・・・・言われたからって・・・・・・・・……」


 ファザコン。

 桜井と茅野は、水嶋明子の言葉を思い出す。

 何とも言えない表情で黙り込む二人に対して、澤井は遠い目をしながら言う。

「まあ、岡村さんは、変わった子だったから……」

 そこで茅野は、もう一度、最後の作品に目線を落とした。

「これ、もらっていっても、いいかしら? 彼女の親族に渡したいので」

「ええ。どうぞ。こちらからもお願いします」

 茅野の申し出を快く了承する澤井だった。

 そして、最後に岡村が自殺した原因に心当たりはないかと尋ねる。

 すると、澤井は少しの間だけ真剣な表情で考え込んだあと、首を横に振って悲しそうに微笑んだ。


 ……このあと、桜井と茅野は礼を述べて美術室をあとにした。

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