【14】変態工場


 暗闇をわずかに揺らす息遣いには、歪んだ欲求と情念が含まれていた。

 北野は耳を済ましながら、ダクトやパイプが縦横に走る構内をさ迷い歩く。

 耳を澄ましながら視界の端々まで、神経を尖らせる。汗ばむ右手に剣鉈けんなたを握り締め、獲物の姿を探す。

「どこぉだぁ……七海ぃ……」

 次の瞬間、数メートル先の物陰で、こつり……と音がした。

「七海ぃい……いい加減に諦めろよ」

 彼が初めて七海瑞希に執着を見せたのは、高校二年生になったときだった。

 大人気ソーシャルゲーム『プリンシバルアイドル』という作品に登場するヒロインと、まったくの同姓同名の女子が同じクラスにいると気がついた。

 それが七海瑞希であった。

 最初は好きなキャラクターと同姓同名だというだけで、彼女を目で追う程度だった。

 すると、ときおりではあるが七海と目が合う事があった。そして、そんなときに彼女の浮かべる表情が、北野には照れているように見えた。

 普通に考えて、ずっとその人を見ていれば目が合う事もあるだろう。更に彼女のリアクションも、他人と目が合ったときの反応としては特別なものではない。

 しかし、自己中心的で自らを客観視できない偏執的な性格の北野は、次第に七海に対して妄想を募らせてゆく。

 その結果、彼の脳内では『七海の方が自分を目で追っている』という事になり『七海は自分の事が好きである』という虚構が構築された。

 次に『このままいけば、七海から告白されるかもしれない』という期待を抱き、その期待が『七海から告白される事は確定した』になり、最終的に『七海から好きと言われた』という認識にすり変わる。

 のちに、己の所業をすべて忘却し『自分の人生が終わったのは、あの四人にいじめを受けたから』と本気で信じるに至った彼の狂気は、この頃から、その片鱗をのぞかせていたのである。

 それはさておき、妄想癖があり一つの物事に固執しやすい彼は、未だに現実の七海瑞希に対して特別な感情を抱いていた。

 それはもちろん、淡い恋心などではなく、溝川どぶがわにぶちまけた反吐へどにも劣るおぞましくも身勝手な屁理屈である。

「……お前は七海瑞希・・・・・・・を汚したんだ・・・・・・お前に・・・七海瑞希を・・・・・名乗る資格はない・・・・・・・・

 だから・・・殺さなければ・・・・・・いけない・・・・七海瑞希を・・・・・七海瑞希のために・・・・・・・・

「……だが、その前にレイプだあぁ……」

 両目をアドレナリンで燃えあがりそうなぐらい輝かせ、北野は周囲を見渡す。

 すると、前方の物陰から、ごとり……と、物音がした。

 北野の唇の両端が不気味に吊りあがった。




 扉を開けると吹き抜けの通路が延びていた。

 通路の両脇には焼却炉から延びた太いパイプと、減煙塔げんえんとう集塵器しゅうじんきなどの大きな設備がひしめいている。

 通路の突き当たりには、中央制御室への入り口の扉と、下へ降りる螺旋階段があった。

「そういえば、ご飯まだだったよね……怪異の連続で忘れてたよ」

 桜井が眉をハの字にして、お腹をさすった。

「梨沙さんに食事の事を忘れさせるなんて、この工場、それだけで星三つはあげたいわ」

「エキサイティングではないけど、それを補うために手数で勝負してきてるのは好感が持てる。あとは、個々の質を高めていけば……」

 などと、上から目線で怪異をレビューしながら通路を進む二人。

 すると、桜井がピタリと足を止める。茅野もそれにならった。

「どうしたのかしら?」

 その問いに桜井は神妙な顔つきで答える。

「……話し声がする。誰かいる」

 そして桜井は右手下方に並ぶ汚水処理用のタンクを指差した。

「たぶん、あの辺り」

「幻聴の類いかしら? 用心していきましょう」

「らじゃー」

 二人は警戒しながら下へ降りる階段を目指した。





「ふへへへ……」

 暗闇にベルトを外すときの金属音と衣擦れの音が鳴り響く。

 それは、汚水処理用のタンクの間にある狭い隙間だった。

 だらしない表情で嫌らしい笑みを浮かべる北野の目には、床に倒れて意識を失う七海瑞希が見えていた。

 つい数秒前に物陰に隠れていたところを発見し、北野は彼女を取り押さえ、頭部を汚水処理用タンクの外壁に打ちつけて、その意識を奪ったつもり・・・だった。

「瑞希ぃい……」

 荒い息を吐きながら彼女にのしかかり、その頬を舐めた瞬間だった。

 ばたん……と、扉の開閉音が聞こえた。

 そして、微かな話し声。

 立ちあがり、マイク越しに聞いているはずの亥俣に話しかける。

「オイ。誰かの話し声がする。撮影中は、工場に出入りできないんじゃないのか?」

 しばらくすると亥俣の声が聞こえた。

『ああ、すいません。手違いで侵入者がありまして……』

「何をやってるんだ……早く何とかしろよ!!」

『いやあ、その侵入者も、北野さんがっちゃってください』

「はあ!? こっちはこれからお楽しみなんだよ!」

『その侵入者も女性ですよ。しかも二人。けっこう可愛い感じです』

「……仕方ねえな」

 あっさりと、侵入者の始末を請け負う北野だった。

『それじゃあ、よろしくお願いしますねー』

 北野は舌打ちをして、動き出した。




 横たわる長いパイプと、四、五メートルはありそうな白いタンクがいくつか並んでいる。

 その側を慎重な足取りで進む桜井梨沙。彼女の後ろにはスタンロッドを手にした茅野循が続く。

 そして、前方の暗がりから二人の方へと向かって迫る人影があった。

 桜井と茅野は足を止めて身構える。すると……。

「ぶっ……」

 桜井は思わず噴き出す。

「梨沙さん、笑ったら申し訳ないわ……」

 かく言う茅野の頬も決壊寸前であった。

 なぜなら、その男の格好がどう考えてもおかしかったからだ。

「おい。動くな!」

 まず、男はズボンをはいておらず、下はブリーフであった。

 更に水中眼鏡をかけて、ボールペンのキャップを右耳に突っ込んでいた。

 そして胸元には蝉の脱け殻をつけており、腰には革鞘に入った剣鉈けんなたを提げている。

 その右手にあるのは……。

「おら、じっとしてろよ。これ、本物だかんな!?」

 樹脂の接着剤を溶かすときに使われる工具、グルーガンであった。

「どうだ? びびっただろ!?」

 得意気な顔の男に憐れみの眼差しを送る茅野。

「どうやら、この人、ずいぶんとヤマナリサマにやられてるみたいね」

「だねえ……」

 桜井が呑気に肩をすくめる。

 その二人の態度が気に食わなかったらしく、男は激昂する。

「てめえ、マジでぶっ殺すぞ、玩具じゃねえんだからなっ!」

 そう言って、グルーガンのトリガーを二人に向かって引いた。

 しかし、当然ながら何も起こらなかった。

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