【12】告発者


 二〇一二年七月二十三日――。


 扇風機のプロペラが回る微かな音と、外から聞こえる蝉の鳴き声……。

 そこは有藤の私室であった。

 水沼を案内し、グラスについだ麦茶を持って戻ると、有藤は思わず吹き出す。

 なぜなら、水沼は勧められた座布団の上で正座をして、まるで氷像のように固まっていたからだ。

「何、緊張してるんだよ……」

 呆れ気味にそう言って、有藤は麦茶を座卓に置き、彼の対面にどかりと腰を降ろした。

 水沼は引きった笑みを浮かべて麦茶を少しだけ舐める。

 そして、決心した様子で彼は青ざめた唇を開いた。

「実はさ、有藤くんが休んでるときの事だけどさ」

「ああ……」

 例の一件での停学の事だろう。

「あのとき、北野が体育に出てる間に、僕の一万円が盗まれただろ?」

「ああ」

 この一件で北野に向けられていた疑いはひとまず晴れて、反対に有藤が根拠のない言いがかりで彼を犯人扱いしたという事になったのだが……。

「あれ、じっ、実は嘘なんだ」

「は……?」

 有藤の表情が歪む。

「どういう事なんだよ……」

 すると、水沼は、まるで世界が終わったあとのような声音で語り始めた。

「命令されたんだ。そうすれば、自分の疑いが晴れるからって……北野に」

「北野にぃ!? じゃあ、やっぱり……」

 水沼はこくりと頷く。

「その通りだよ。学校で起こった盗難事件の犯人は北野なんだ」

 実は水沼は、ずっと北野から影で暴力や恐喝きょうかつを受けていた。

 事ある毎に金銭を要求され、親の財布から数万円もの金額を抜き取らされた事もあるらしい。

「親とか、先生にチクったら殺すって……」

 水沼によれば、当初の北野は友好的だったのだという。

「好きなアニメとか、ラノベとか、当時はまってたソシャゲとか、そういうオタ趣味の話が合って……」

「ああ……」と、有藤は思い出す。

 水沼と北野の二人が、教室などで、よく表紙にアニメ絵の描かれた文庫本を貸し借りしていたのを……。

「高校入ってからずっと浮いていて、同じ趣味を語れる友だちがいなかったから、最初は嬉しかったんだけど……」

 一見すると大人しいオタクタイプの北野。しかし、その本性はサディストの異常者であるらしい。

「……機嫌を損ねるとすぐに殴ってきたし、休みとか放課後に、捕まえてきた猫とか犬に酷い事を……」 

 水沼の顔が嫌悪に歪む。有藤も絶句する。

 その北野の本性は、彼とのつき合いが深くなるにつれ、次第に露になり始める。

 しかし、唯一の友人を失いたくないという恐れと、北野の悪い部分を許容する事で友情を示そうとした彼の間違った優しさが、目眩めくらましとなった。

 ずっと、北野の異常性に対して見てみぬ振りをしてきたのだという。

「あの糞野郎……」

 有藤は鬼の形相で歯噛みする。それを見た水沼が「ひっ」とかすれた声をあげた。

 再び有藤は大きく深呼吸して気を鎮め、水沼に問うた。

「なぜ、お前は、その話を俺に……」

 すると、水沼は血を吐くように答える。

「もう、我慢の限界だったんだ……」

「我慢の限界?」

 その有藤の言葉に水沼は頷くと、真っ直ぐ彼の目を見つめた。

「聞いたんだ。北野から。何で、有藤くんがあいつの事を殴ったのか……」

「ああ……そうかよ」

 憮然ぶぜんとした表情で有藤は、誤魔化すように麦茶を口にした。

 有藤が怒りで我を忘れた直接の原因は、北野に小声で耳打ちされたこの言葉だった。


 ……どうせ、その二千円も、お前の母ちゃんが男に媚を売って稼いだ汚い金なんだろ? だったらいいじゃん。


 有藤の両親は彼が幼い頃に離婚していた。原因は父親の浮気であったのだという。

 母親は一人息子の京介を引き取ったあと、隣町のキャバクラで働きだした。

 休日は寝てばかりで、家事はあまりやらない。どこかに連れていってもらった事もないし、一緒の家に住んでいるにも関わらず、顔を合わせない日もあるほどだ。

 しかし、日々の生活で寂しさを覚える事はあれど、不自由さを感じた事は一度もなかった。

 中学校のとき、野球がやりたいとままを言ったときも、嫌な顔一つせずに二つ返事でバットやグローブなどを買ってくれた。

 有藤は、そんな彼女の事を尊敬していたし大好きだった。

 だから、彼は北野の言葉によって、あっさりとぶち切れてしまったのだ。

「……でも、その結果、母ちゃんに心配をかけてんだから世話ないけどな」

 有藤が自嘲気味じちょうぎみに笑う。

 水沼は何と言葉を返すべきか解らず、曖昧に笑って麦茶に口をつけた。

 そこで、この件に関して疑問に思っていた事を有藤にぶつけてみる事にした。

「……ねえ、有藤くん」

「何だよ?」

「何で、正直に言わなかったの? 北野に酷い事を言われたって」

 そうすれば、あの事件以降、彼につきまとっている悪評はいくらかマシになったはずだ。

 しかし、有藤がそうした弁明をいっさいしていないらしい事が不思議だった。

 これに関して、有藤は少しだけ照れ臭そうな表情で述べる。

「だって、キレて殴ったのは事実だし……何か嫌じゃん」

「何が?」

「母ちゃんのせいにしてるみたいで」

「ああ……あ……うん」

 彼は大切な人のために自ら悪役に甘んじる事をいとわない。疑いを晴らすために、他者に嘘を強要した北野とは逆である。

 水沼はそんな彼に真相を打ち明けて、本当によかったと心の底から思えた。

「兎も角だ。今の話を学校に……」

 と、有藤が言いかけたところで、水沼が待ったをかける。

「駄目だよ。証拠がない。それに北野はけっこう小狡こずるいところがあるから……」

 北野による水沼への金銭の要求は、すべて口頭だった。メッセージなどの証拠は一切ない。

 頼みの綱は、水沼の証言である。それも、とぼけられてしまえばどう転ぶかは解らない。

 いちばん最悪なのは、中途半端に追い詰めて、なあなあにされてしまう事だった。

「じゃあ、どうすんだよ……」

「いや、僕も、特にいいアイディアがある訳じゃないんだけど……」

「何だよ、それ……」

 短くはない沈黙。

 気まずい空気が両者の間に流れ始める。

 ……と、そこで有藤が、おもむろに口を開いた。

「なあ、水沼」

「何?」

「俺ら、アホじゃん」

「まあ否定はしないけど……」

 水沼が苦笑する。

「ならば、頭のいいやつの力を借りようぜ」

「え?」

 このあと、有藤は幼馴染みの篠澤麻友子にすべてを打ち明けて助言を求めた。

 のちに篠澤の提案で、この話し合いに七海瑞希も加わる。

 かくして四人は、北野啓大に対する反撃を行う事にした。

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