【11】マネキン


 北野が扉を開けると、再び吹き抜けの通路がその暗闇を横断していた。

 左右の手すりの向こう側には、焼却炉から延びた太いパイプと、減煙塔げんえんとう集塵器しゅうじんきなどの大きな設備がひしめいている。

 通路の突き当たりには、中央制御室への入り口の扉と、下へ降りる螺旋階段があった。

「迷子の仔猫ちゃんは、どこでちゅぅかぁー!」

 北野は手すりから身を乗り出し、下をのぞいた。すると、ちょうど脅えた表情のボブカットの女と目があった。

「うおーい、七海ぃ……あとは、お前だけだぞぉ……」

「ひぃっ」

 そのクールな印象の顔が恐怖に犯されて歪んだ。

 そして、北野は口元を三日月型にして笑う。

「さあ、パーティタイムの始まりだあ……」

 すると絶叫が轟き、彼女は立ち並んだ汚水処理用のタンクの影へと飛び込むように姿を消した。

「ひっひっひっ……ひゃっはっはっは……」

 北野は狂気染みた高笑いを振りまきながら、速足で下へ降りる螺旋階段へと向かった。




 二〇一二年七月二十二日。

 夏休みまで残り三日というところだった。

 その夜、七海瑞希は自室の勉強机の前でキャスターつきの椅子に腰をおろし、スマホを片手に篠澤麻友子と何気ないやりとりに興じていた。

 手元のスマホに写された画像には、右後脚に包帯を巻いた四足の動物が、餌皿にそそがれたミルクを舐めていた。

 篠澤によれば二十日の夕方、家の近くで散歩の途中に保護した仔犬なのだという。

 狐色のふさふさとした毛並みで、その瞳はつぶらで愛らしい。それを眺めながら頬を緩ませていると……。


 『で、聞いて欲しい話ってなあに?』


 というメッセージが篠澤から届いた。

 彼女は学年きっての優等生で頭がよく、世話焼きな性格だった。

 それゆえに、同学年から相談相手として頼られる事も多く、“二年四組のオカン”などと一部では呼称されていた。本人は嫌がっているのだが……。

 それはさておき、七海は少しの間、考えをまとめて文面を打ち込み送信する。


 『実は最近、というか、けっこう前から北野啓大とよく目が合うの』


 すぐに返信がある。


 『北野ってあの北野?』


 『そう。あの北野』


 『ナナって、ああいうのが好みなの?』


 そのメッセージを目にした途端、七海の顔が歪む。このときの彼女の表情には、心の底からの嫌悪と怖気おぞけがにじんでいた。

 脳がフリーズし、何と返信したらよいのか解らず、そのままの格好で固まる七海。

 すると、数分後、篠澤から電話が掛かってきた。

 咄嗟とっさに電話ボタンをタップして受話口を耳にあてると、真っ先に篠澤の申し訳なさそうな声が飛び込んできた。

『ごめん。茶化ちゃかして』

 どうやら、レスポンスの開き具合から七海の心情を悟ったらしい。

『それで、どういう事なの?』

 七海は「こっちこそ、ごめん……」と言って、ぽつぽつと語り始める。

 事の発端は、今年の春先からだった。

 ふとした瞬間に、嫌な視線を感じる事があった。

 それは、女性一般がもっともいとう、性的ニュアンスを多分に含んだ視線。その最低最悪レベルのもの。

 学校の廊下で、教室で、全身の毛穴が開き背筋がざわりとする。そして、その視線の元を辿ると、必ず北野がそこにいるのだ。

 しかし、だからと言って、客観的に考えてみると偶然や気のせいであるような気もした。北野に「何か用?」と尋ねても「何が?」と返されれば答えにきゅうするレベルの頻度とタイミングでしかなかったからだ。

 そして、誰かに相談しようにも、さっきの篠澤のようなリアクションを取られる事は目に見えていた。

 したがって、七海はずっと、この案件については自意識過剰であると、自らに言い聞かせていたのだが……。

「……それで、昨日なんだけど」

 彼女のSNSに北野からDMが送られてきたのだという。

 その文面は以下の通り……。


 『最近、よく目が合うね。僕の事が好きなの?』


 受話口から篠澤の短い悲鳴が聞こえた。 

『きっしょ……ヤバいそれ……』

「でしょ?」

 そもそも、七海とっての北野啓大は、高二になって同じクラスになるまで顔も名前も知らなかったほど接点がなかった。好き嫌い以前に彼という人間をよく知らない。

 それは向こうも同じはずだった。

『……で、何て返信したの?』

「いやもう、マジで無理だから無視してブロック……」

 そこで、何気なく窓の方を見た。

 カーテンが少しだけ開いており、その隙間からのぞく硝子窓に映った自分自身と目が合う。

 どうにも気になってしまった。

『ナナ?』

「あ、ごめんね。ちょっと待って」

 電話を耳に当てたまま、窓辺に寄る。

 そして、カーテンを閉めようとした瞬間だった。

 七海の部屋は二階で、家の正面を横切る路地が見渡せた。その向かいにある電信柱のたもとだった。

 街灯の光の帯の中、誰かが立っている事に気がつく。

 キャップを目深にかぶっていたために目元はよく解らない。しかし、その口元に浮かんだ嫌らしい笑みは……。

「ひぃッ!!」

『ナナ、どうしたの? ナナ……大丈夫?』

 七海はカーテンを閉め、窓から背を向けて、その場にへたり込んだ。




 二〇二〇年七月十九日――。


 廃工場の構内・・・・・・は薄暗かったが・・・・・・・ライトやナイト・・・・・・・ゴーグルなどに・・・・・・・頼るほどでは・・・・・・なかった・・・・

 そのバンカーの縁に立って首を傾げる桜井梨沙と茅野循。

 彼女たちの足元に横たわるのは、一体のマネキン人形・・・・・・であった。

 刃物での傷が無数につけられており、衣服はズタズタにされていた。

「また、何かの恐怖演出かな、これ」

「そうだと思うけれど、別に怖くないわね」

 茅野がデジタル一眼カメラの映像を見ながら、にべもなく言った。

 そこに映し出されているのは、やはりマネキン人形であった。

「取り合えず、先へ進んでみましょう」

「そだね」

 二人は左手にあった階段を登り、二階の吹き抜けの通路へと向かった。

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