【10】邪悪な正義


 バンカーの上を横切る二階の通路を進む北野。

「ふーん、ふん、ふん♪」

 調子外れの鼻唄と共に、無造作に振るわれた剣鉈けんなたが薄暗闇を切り裂く。

 そのたびに、左右の手すりにぶつかった切っ先が、金属音と火花を撒き散らす。

 彼の行く通路の突き当たりには、バケットの操作室の入り口があった。

 そして、通路はその操作室の前で右に折れ、壁に沿って続いている。

「……ふーん、ふん、ふん♪」

 北野は操作室の扉口の前を通り過ぎ、右側へと続く通路の方へと足を向けた。

 かつん……かつん……と、二歩進んだところで、唐突にきびすを返し操作室の扉を勢いよく開けた。

「バア!! 嘘でしたぁああっ!」

 狭い室内を見渡す。

 壁際に並んだモニターや操作盤、そしてキャスターつきの椅子。

 それらの影にしゃがんで身を寄せていたのは、茶髪の男と黒髪の女だった。

「お前、水沼と篠澤だな……?」

 返答はなかった。茶髪の男が勢いよく立ちあがる。

「篠澤! 早く逃げろッ!!」

 北野は剣鉈を握った右手首を掴まれてしまう。膠着状態こうちゃくじょうたいが訪れる。

「水沼くぅん……」

「どうした篠澤ッ!!」

「あああ……ごめん、水沼くん、腰が抜けて……」

 どうやら、立ちあがれないらしい。

「篠澤ッ!!」

「陰キャの癖に格好をつけてんじゃあねえよ、馬鹿がッ!」

 そこで、北野は腰から飛び出したグリップを引き抜きながら、左手を振りあげた。

 ごつん……という鈍い音が鳴り響き、右手を掴んでいた男の顎が跳ねあがる。膝を折り、北野の足元に突っ伏す。

 ぴくりとも動かない。

「きゃあああああああ……水沼くん……」

 甲高い絶叫。北野は眉間にしわを寄せて舌打ちをする。いったん、剣鉈を腰の革鞘かわざやに戻した。

五月蝿うるせえ、糞ブス」

 北野は吐き捨てて、その騒音の元に向かってトリガーを引き続ける。

 そのたびに、彼女の四肢がはねあがり、しまいにはだらりと脱力する。

 そこで北野は、マカロフPMの残弾数を思い出す。数え間違いがない限りは、あと三発しかない。

「あーあ。もう、死んでんなこれ。水沼は、こっちでるか」

 再び剣鉈に持ち替えて、高々と振りあげた――。





 二〇一二年の七月二十三日だった。

 有藤京介はその日の昼過ぎ、自宅の裏庭に面した縁側で扇風機を前に涼んでいた。

 既に夏休みに入ってはいたが、何も特別な事をやる気になれず、家でだらだらと時間を潰していた。

 ここのところ、有藤はいつもこんな調子であった。

 夏休みに入ってから部活にも行っていない。肉離れになったと嘘を吐いて、欠席している。

 今は退部するかどうかで悩んでいた。

 この倦怠感けんたいかんは、あの春先に起こった北野絡みの事件に端を発するものである。

 すべては自分の短気と勘違いが原因である事は承知していたが、それでも彼は納得できなかった。

 あの一件のお陰で、せっかく、もぎ取った野球部のレギュラーをおろされ、唯一の家族である母親との仲も気まずいままだ。

 口さがない者たちが、有藤の所業について、未だに陰口を叩いている事も知っていた。

 それらに対するむしゃくしゃする思いがわだかまり、彼の心に暗い影を落としていた。

 もちろん、彼とは幼馴染みの篠澤麻友子など、心配してくれる者もいるにはいた。

 だが、そんな風に他者に気を使わせている自分が情けなくて、また心が沈み込んだ。

 そんな鬱々とした気分を紛らわすために、スマホで適当な動画を鑑賞していると、玄関のインターフォンが鳴った。

 面倒臭かったので、居留守でも使おうかと思ったところでもう一度、インターフォンが鳴り響いた。

 舌を打って重い腰をあげ、応対しに向かう。

 その最中にもインターフォンが鳴った。

「はいはい……何なんだよ……」

 三和土たたきに降りて、サンダルを突っかけ、引き戸を開けた。その戸口の向こうに立っていたのは……。

「や、やあ……」

 当時はそれほど親交のなかった水沼悠馬であった。

 今でこそ、一見するとチャラい風に見える水沼悠馬であったが、この頃の彼は、髪も服装も地味でクラスでも目立たない存在だった。

 そして、当時の有藤にとっての水沼は、北野啓大と仲のよい友人という認識だった。

 事実、北野と水沼は、少なくとも有藤の目に映る範囲では、常に仲よく行動を共にしていた。

 そんな訳で、彼の顔を見た途端、当然ながら北野啓大の事を思い出して、警戒心が先に出る。

「何の用だよ?」

 ついぶっきらぼうな口調になってしまった事を内心で反省していると、水沼が泣きそうな顔で言った。

「実は、その……北野の事で……話があるんだ」

「北野の……?」 

 有藤は少しだけ思い悩んだあと、彼の話を聞く事にした。




 二〇二〇年七月十九日――。


 バケットの操縦室の床に横たわる二人を見おろして、北野は嫌らしい笑みを浮かべる。

 ぺっ……と唾を吐き、その部屋をあとにした。

「あと一人ぃい……」

 再び剣鉈を振り回しながら、薄暗闇の通路を進む。

 バンカーの天井からは、怪物の大腮おおあぎとじみたバケットが太い鎖によって宙に吊られていた。

 その脇を通り抜けると、やがて通路は行き止まる。すると、左側の壁に隣のエリアへ通じる扉があった。

 北野はノブを握ったまま、ピンマイク越しに聞き耳を立てているであろう亥俣に向かって語りかける。

「……おい」

 少し経って亥俣の声が聞こえてくる。

『はい。何でしょう?』

「やっぱ、スナッフにも、濡れ場って必要だよな?」

『あははは……どうぞ、その辺りはお好きに。最終的に殺していただければ、こちらとしては文句はありません』

 その返答を受けて、北野は両目を爛々らんらんと獣のように輝かせながら独り言ちる。

「なら、レイプだなあ」

 被害者は加害者に復讐する権利がある。

 加害者への復讐は、いかなる行為も正当であり、何をやっても許される……北野は、本気でそう思い込んでいた。

 七海瑞希のすべてを蹂躙じゅうりんし、踏みにじるにはそれしかない。

 自分が正義の側に立っているという全能感に彼は酔いしれていた。

「……本物の復讐・・・・・・ってやつを見せてやる」

 北野は邪悪な笑みを浮かべながら、隣のエリアへの扉を勢いよく開けたのだった。

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