【07】Go and go
二〇二〇年七月十九日――。
桜井梨沙と茅野循は、来た道を引き返していた。当然ながら
狐狸無山の登山道は神社のすぐ近くにあり、山の裏手に所在するくだんの廃工場までは、けっこうな距離があった。
したがって、地図アプリを眺めながら
そんな訳で河川敷の駐車場へと戻り、銀のミラジーノに乗り込む。地図を見ながら山間の県道を行く。
「……それにしても、本当にホラー映画にでも出てきそうなお爺さんだったよね」
と、ハンドルを握った桜井が言った。
道は曲がりくねっており、両側の沿道には山深い杉林が帯のように連なっていた。
「そこなのよね……」
助手席の茅野が、桜井の言葉に応じる。
「あんな事を言われたら、もう行くしかないじゃない」
「……やっぱり、あのお爺さんは、あたしたちに廃工場へ行って欲しかった?」
常識的に考えて、そんなはずはない。しかし、茅野は……。
「だったとしても、動機が解らないわ」
鹿爪らしい顔で思い悩み始める。
そして桜井が前方に目線を向けたまま冗談とも本気ともつかない口調で言った。
「あたしたちを廃工場に誘い込んで、よからぬ事を考えてるとか……」
「だったら、尚更、行かないと」
と、そのイカれた会話が一段落した直後であった。
前方の左側の斜面から、何かが路上に転がり落ちてくる。それは、車内の二人の目には人間のように映った。
「うおっ。まじか!」
桜井は
慣性の法則で、桜井と茅野の身体が前後に大きく揺れ動いた。
幸いにも、車は寸前で停まってくれた。
「セーフ……」
桜井がフロントガラスの向こうに目を向けると……。
路上に寝そべったまま動かないそれは、薄汚れた作業着をまとったマネキンであった。
桜井と茅野は顔を見合わせてから車を降りる。
「死体が出てきたかと思ったよ」
「見て。梨沙さん……」
茅野がマネキンを指差す。
「何か書いてある」
マネキンの胸元にはダクトテープで紙が張りつけてあり、そこには赤いマジックで、こう記してあった。
“帰れ!”
まるで、小学生低学年のような歪んだ筆跡が何とも不気味である。
しかし、二人は……。
「うーん。やっぱり、歓迎されているみたいだね」
「よほど、私たちに来て欲しいみたいね」
独自の解釈をした。
それから、二人はマネキンの転がり落ちてきた斜面をしばらく捜索したが、特に変わったものは見つからなかった。
諦めて車に乗り込み、先を目指した。
しばらくすると、右の斜面の上に大きな煙突と錆びついたトタンの外壁に囲まれた大きな施設が姿を現す。
「あれが、例の廃工場で間違いないみたい」
「ふんいきあるねえ……」
その廃工場まで続く坂道の入り口には丸太の遮断棒が降りていたので、いったん通り過ぎる。
すると、数十メートル先の左の沿道に砂利敷きの空き地が見えてくる。そこには古びた白い軽自動車が、ぽつんと停めてあった。
「あそこ、停めてもいいかな?」
「大丈夫だとは思うけれど」
その茅野の言葉を聞いたのちに、桜井はウインカーを出して空き地へと乗り入れる。
車を停めるとリュックなどを担ぎ、徒歩でさっきの坂道まで戻る。
すると……。
「あれ? こんなのさっきあったっけ?」
「記憶にないわね……」
二人は狐に頬を摘ままれたような表情で、その物体を見つめる。
それは、丸太の遮断棒の中央に赤い荷造り用のビニールロープで
薄汚れた赤ちゃんの人形であった。
そのお腹には、またもや赤いマジックで……。
“来るな!”
と、書かれている。
「“来るな”って、私たちの事かしら?」
「違うでしょ。主語がないし」
「そうよね。私たちじゃないわよね。考え過ぎよね……」
あくまでも、現実を直視しようとしない。
桜井と茅野は、その赤ちゃんの人形を嬉々として撮影したあと遮断棒を潜り抜け、坂道を登り始める。
すると……。
「うおっ!」
「あれは……」
流石の桜井と茅野も足を止める。
坂道の上から、何か丸い物体が勢いよく転がってくるではないか。
二人の目には、それが人間の生首に見えた。
黒髪を振り乱し、真っ白い顔で、血走った目を見開き、お歯黒をむき出しにして、ゲタゲタと笑う生首……。
それは、桜井の爪先に、こつりと当たって動きを止める。
桜井は、それを両手で拾いあげ、きょとんとした表情で瞬きを繰り返した。
「バスケットボールだ」
生首だと思われたものは、ボロボロのバスケットボールであった。
「確かに生首に見えたのだけれど……」
茅野がデジタル一眼カメラを確認する。しかし、そこに記録されていた映像も、坂道を転がるバスケットボールであった。
「循、これは……」
「ええ。梨沙さん……」
茅野は坂道の上を見あげながら、悪魔のような笑みを浮かべる。
「もう、これ、絶対に私たちを誘っているわ……」
「じゃあ、仕方がないから釣られてあげるとするか」
桜井がなぜか上から目線で言った。
彼女たちの選択肢にあるのは、“Go”と“Go”のみ……。
こうして二人は坂道を登り、廃工場の門前に辿り着いた。
すると、門と門の間に赤いビニールロープが渡されており、そこに腹を裂かれた鼠が何匹もぶらさがっていた。
周囲には、おびただしい数の蝿が渦を巻いて飛んでいる。
まろび出た内臓は既に干からびており、ゴムでできた人形のようだった。
「この鼠の死体は、本物みたいね」
茅野がデジタル一眼カメラの映像を確認しながら言った。
「……うーん、猫さんでもいるのかな?」
桜井が眉間にしわを寄せて小首を傾げる。
二人は特に気にする様子もなく、鼠の吊るされたビニールロープを潜り抜けて、工場の敷地に足を踏み入れた。
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