【11】S


 大正十五年――。


「……それでは、そろそろ帰るとしよう。退院はいつ頃に?」

 九尾の問いに佐藤が質問に答えた。

「今日いっぱい様子を見て、明日、何事もなければ……」

 因みに佐藤松子の病室には、彼女が入院したその日から呪い避けの結界が貼られていた。

 当然ながら、秘密の漏洩ろうえいを恐れた“かの一族”による呪殺を防ぐためである。

 しかし『田んぼの稲は隣の稲の事など気にしない』という本郷七重の言葉が本当ならば、この結界の出番はないであろうと九尾は考えていた。

「退院したあとは、どうするのだ?」

「しばらくは、叔母様の家で過ごそうかと……あとの事はあまり……」

 悲しそうに首を振る佐藤。

「……もし、行く宛てに困ったのならば、東京のわたしの父親を頼るといい」

 この時代の九尾天全こと土御門遥子は、こう見えてもさる華族と縁の深い名家の生まれである。

 父親は数々の事業で成功をおさめた辣腕家らつわんかとして、その名を広く知られていた。

「ありがとうございます。もしも、本当に路頭に迷う事があれば、そのときは……」

 深々と頭をさげる佐藤。

 それを見た九尾は「うむ」と頷いて、丸椅子から腰を浮かせた。その横で岡田が静かに頭をさげる。

 二人は楚々そそとした仕草で袖振る佐藤松子に見送られ、病室をあとにした。

 そして、廊下をしばらく歩いたあとだった。

「彼女の話……どう思う?」

 おもむろに九尾が問うた。岡田はピンときていない様子で首を捻る。

「どう……とは?」

 九尾は真っ直ぐな瞳で前方を見据えたまま、淡々と言葉を紡ぐ。

「都合がよすぎると思わないか?」 

「だから、何がですか?」

「……一族のくびきより逃れたかった彼女にとって都合の悪い人間が全員死んだ」

「えっ……いや……でも……儀式の失敗は次女による凶行が原因で……」

「その次女をそそのかしたのは誰だ? かの一族のものではない新しい価値観を植えつけたのは?」

「まさか……」

 岡田はぎょっとして目を見開く。

「まったく証拠はない。考え過ぎかもしれぬ。だが引っ掛かる……」

 そんな話をしながら二人は玄関ホールを横切る。すると、ちょうど入れ違いに風呂敷包みを抱えた少女が玄関の外から姿を表す。

 その少女が着ていたのは、あの惨劇の夜に佐藤松子が身にまとっていたセーラー服と同じものだった。

 不躾ぶしつけな視線を投げかける九尾たちに対して、少女はほがらからかな笑みを浮かべながら会釈えしゃくする。それから、受付で台帳に記帳を始めた。

「佐藤さんのご学友でしょうかね?」

「まあ、そうだろうな……」

 二人はそのまま病院をあとにした。




 宮藤サエは風呂敷包みを抱えて病院の玄関を潜り抜けた。

 矢絣やがすりの袴を着た少女と、書生風の男がやたらとめつけてきたので、軽く頭をさげて受付へと向かう。

 佐藤松子の見舞にきた事を告げて、面会者名簿に記帳する。

 それから、佐藤の病室へと向かった。

 少し緊張した面持ちで、扉をノックする宮藤。

「はい。どうぞ」という声が聞こえてから「失礼します」と控え目な声をあげて扉を開けた。病室の中に入る。

 すると、佐藤がベッドから出て、宮藤を出迎えた。

「サエさん……約束のものは持ってきてくれたかしら?」

「はい……」

 宮藤が風呂敷を差し出す。佐藤はそれを受け取りベッド脇の用箪笥ようだんすの上へと置いた。

 すると突然、その背中に宮藤が抱きつく。

 至福の表情で頬を擦りつける。

「ああ……お姉さまの……心臓の音……」

 佐藤は呆れ顔で溜め息を一つ吐いて、彼女の両腕を振りほどく。

「ほら。駄目よ。それより……」

 甘ったるい微笑を浮かべながら、右手の指先で宮藤の顎を持ちあげた。

「早く、脱いで?」

「はい。お姉さま」

 鬼灯ほおずきのように赤くなった宮藤は、セーラー服を脱ぎ始めた。何のてらいもなく下着姿となる。

 そのあられもない立ち姿に嗜虐しぎゃくの目線を這わせると、佐藤は強い口調で命じる。

「下着も。早く」

「は……はい」

 躊躇ためらいがちに返事をすると、宮藤は言われた通り一糸まとわぬ姿となった。

 すると、今度は佐藤が淡々と己の着ていた浴衣や下着を脱ぎ始める。そして、宮藤はというと、その脱がれたばかりの佐藤の着衣をすべて身にまとった。

 それが終わると……。

「ベッドに寝なさい」

 冷たい命令口調の佐藤。

「はい」

 宮藤は無邪気な童女のようにごろりとベッドへ転がる。

 そして、仰向けになると聖母マリア像のように両手を胸の前で組み合わせて目を閉じた。

 佐藤は用箪笥の上の風呂敷包みをほどく。そして、中から現れた葛籠つづらの蓋を開ける。

 葛籠には、濡れ布巾、大きめの薬瓶、マッチ、そして大振りの金槌が入っていた。

 その金槌の柄を握ると、佐藤はベッドの脇に立つ。

 そして目を瞑ったままの宮藤に語りかけた。

「ごめんなさいね。本当の自由を手に入れるには、こうするしかないの……」

 確かに一族同士の繋がりは、互いにお互いの居場所を知らないほど薄い。ゆえに彼らが積極的に佐藤松子へと危害を加える事はない。

 しかし、もしも偶然にどこかで佐藤の存在を知ってしまった場合は別だ。

 そうなったときのために……たったのそれだけのために……佐藤松子はこれからある行為を行おうとしていた。

「……サエ。ありがとう」

 宮藤が目を瞑ったまま微笑む。

「お姉さまのお役に立てるなら」

 佐藤は高々と右手を振りあげた。

 そこに握られた鉄槌を宮藤サエの顔面へと振りおろす。

 意外と大きな音が鳴り響き、鼻っ柱がひしゃげた。その瞬間、宮藤の手足が不規則に跳ねあがり、だらりと弛緩しかんする。

「どうやら、一発で意識を失ってくれたようね」

 佐藤は、ほっとする。

 もちろん、彼女の事を気遣った訳ではない。苦痛で暴れられたり、気が変わって逃げ出される事がないからである。

 そのまま佐藤は、宮藤の顔面にハンマーを振りおろす。一心不乱に振りおろす。次第に殴打の音は濡れそぼる。

 それは淫猥いんわいさを帯び、それでいて、子供が泥田で跳ね回っているかのような無邪気さを兼ね備えた音に変化してゆく。

 ひしゃげ、潰れて、はぜて、かつては人の顔があった場所に鮮やかな肉の花が咲き誇る。

 佐藤はただひたすら、宮藤の人相がぐしゃぐしゃに潰れてしまうまで金槌を振りおろし続けた。

 それが終わると、濡れ布巾で金槌の柄や、己の身体に付着した返り血をぬぐった。それから、宮藤が脱いだ着衣を身につける。

 更に薬瓶を取り出すと、それを無惨な宮藤の遺体に振りかけた。

 最後に火を灯したマッチを宮藤の身体の上に投げ捨てる。瞬く間に火の手があがった。

 佐藤はまったく慌てた様子もなく病室から出る。悠々と玄関に向かった。

 そうして彼女が玄関ホールへと辿り着いた頃、ようやく誰かが出火に気がついたらしく、病室の方から騒がしい声が聞こえた。

 佐藤松子は、足を止める事も、振り返る事もなく、平然と病院をあとにした。

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