【10】鏡の在処


 榛鶴までの道は長い。

 夕焼けで真っ赤に染まった海沿いの国道を、銀のミラジーノは走る。

 その車中での事だった。

「……それにしても」

 と、話を切り出したのは茅野循であった。

 ドリンクホルダーに刺さっていたアイス珈琲をストローでちゅるちゅるとすすってから口を開く。

「取り敢えず、“禁后”の鏡台が存在し、あの無茶苦茶な話が実際に起こった可能性があるという事に私は驚いているわ」

 桜井がフロントガラスの向こう側を見据えたまま同意して頷く。

「だねえ……てかさ、その鏡を探させたいなら何であたしたちなんだろうね? 最初から菅野くんにやらせればいいじゃん。貞子みたいに“鏡を見つけなければ、あと何日で死ぬ”みたいにしてさあ」

「それは、もっともな突っ込みね……今回の相手は、かなり不気味よ。意図がまったく解らない」

 と、言って思案顔で、サイドウインドに頭をもたれた。

「そう言えば、循……」

「何かしら?」

 と、返事をして運転席の方へ目線だけを向ける茅野。

「偽物の九尾センセからメッセージをもらう前に何か言いかけてたじゃん」

「えっと……何だったかしら?」

「ほら。あの三人の名前だよ。菅野くんの友だちとその彼女の……」

「ああ……」

「あれは、何だったの?」

 茅野は鼻を鳴らして微笑み、その質問に答えた。

河合・・熊谷・・ナオミ・・・……全員・・谷崎潤一郎の・・・・・・痴人の愛・・・・という小説に・・・・・・出てくる登場人物・・・・・・・・と同じ名前なのよ・・・・・・・・

「ええっ。それって偶然……な訳ないよね?」

 桜井が驚いて目を見開く。その彼女の横の車窓を大型のタンクローリーが追い越して行く。

 茅野は頭をもたげ、姿勢を正した。

「河合、熊谷までなら偶然かなとも思ったのだけれど、そこにナオミときたら、ちょっと偶然とは思えないわ。だから、私は彼が作り話をしていると思ったの」

「因みに、どんな話なの? その『痴人の愛』って」

「“美少女育成に失敗してしまったけれど、ドMだからけっきょく大勝利”みたいな話よ」

「それは、キモいね……」

 と、桜井は端的に感想を述べた。




 銀のミラジーノが榛鶴の山間部に着いたのは、とっぷりと日が暮れたあとだった。

 蛇行した山道の暗闇をサーチライトが切り裂く。その中に浮かびあがるのは、沿道の向こうに林立する樹木の群れであった。

 やがて車は山道の突き当たりにあった砂利敷きの広場に辿り着く。

 その奥には腰丈程度の柵で塞がれた小道の入り口があった。

 更にそこから先へ進むと、くだんの湖が見えてくるはずだった。

 菅野の話では、その湖畔のすぐ右側に見える廃屋が“禁后”の鏡台があるという家らしい。

「この先の湖は、どうやらバスフィッシングでは、そこそこ有名らしいわね。廃屋については、一応、ローカル掲示板や釣り関連のコミュニティで“幽霊が出る”という噂がいくつかあがっていたけれど、どれも具体性にかけるものしかないわ」

「ふうん」と、いつも通りの気のない返事で答える桜井。

 それから二人はヘッドバンドライトを装着して明かりをつけ、木の柵を乗り越える。

 小道を二十メートルくらい進むと視界が開けて湖のほとりに辿り着く。

 大きさは二人が通う藤見女子高校の敷地がすっぽりと入ってしまうぐらいの広さがあった。

 夜闇に染まった黒々とした水面が、ときおり雲間から降りそそぐ月明かりによって黄金色にきらめく。

 周囲に人気ひとけはなく、遠くの木立からふくろうの鳴き声が聞こえてきた。

 そして、それは湖畔に沿って右へ百メートルほど行ったところであった。

 暗闇の中に白い外壁がうっすらと浮き出て見えた。まるで真夜中の墓地に佇む幽霊を思わせる。

 その廃屋こそが、先週の日曜日に菅野が訪れたという“禁后”の鏡台があるとされる家であった。

「あれか……」

「ずいぶんと、襤褸ぼろいわね」

 二人は湖畔の荒い砂の上を歩いて、家の方へ近づく。玄関へと続く石段の前に立った。

 すると、その荒れ果てた姿がよりいっそうあらわになる。

 玄関の扉や窓枠はすでになくなっており、二階の屋根は一部が崩落していた。

「こんなところに、本当に鏡台が……?」

 桜井が怪訝そうに首を捻る。すると、茅野は渋い表情で廃屋を見あげた。

「例えそれが本当だったとしても、これじゃ、何も残っていなさそうだけれど……」

「取り敢えず、中に入ってみようか……」

「そうね」

 二人は石段を登り、開け放たれたままの玄関を潜り抜けて探索を開始した。




 足元には落ち葉、木の枝、硝子片、空き缶やペットボトル、弁当や惣菜の容器、釣り餌や釣具の空き袋が散らばっていた。一部の廊下や部屋の床が抜け落ちている。壁には定番のスプレーの落書きがいくつもあった。

 しかし、すべての部屋を回ってみるも、鏡台どころか家具類がまったく残されていない。鏡の一枚も見当たらない。

「……ないねえ」

 桜井は一階奥の板張りの部屋で室内を見渡す。

「本当に、“禁后”の鏡台なんてあるのかしら……?」

 茅野は今更な事を言って、桜井の周囲をうろうろと動き回りながら思案する。

「……鏡は“かの一族”に伝わるもの。遠い昔、大和朝廷により滅ぼされ、今はもう存在していた記録すらほとんど残されていない」

 と、昨日の九尾の偽物から届いたメッセージの文面をそらんじる。

「……という事は、その一族は、少なくとも大宝律令の前から存在していた事になる。でも、それって、おかしいのよ……」

「何で?」と桜井。

「だって、鏡台が今の形になったのは、室町時代・・・・からだもの。だから、それより以前の時代では、鏡台が儀式に使われていたはずがないの……」

「じゃあ、やっぱり“禁后”の話は全部嘘で鏡台なんて存在しない?」

「……か、儀式は今とは違う形で行われていたか……」

 と、茅野が言い終わる前だった。

 めきり……と、嫌な音がした。次の瞬間、木屑と木片が飛び散り、短い悲鳴と共に茅野の姿が消える。

「循!」

 どうやら、腐った床板を踏み抜いたらしい。桜井が手を伸ばして駆け寄るが、間に合わない。

「循っ! だいじょうぶっ!?」

 桜井は血相を変えて、茅野が落ちた穴を覗き込んだ。すると……。

「無事よ。梨沙さん」

 二メートルぐらい下で、膝を立てながら座った茅野が苦笑していた。

「怪我は?」

 桜井の問いに、茅野はゆっくりと立ちあがりながら答える。

「大丈夫。それより、梨沙さん……面白いものがあるわ。降りてきて欲しいのだけれど……」

「りょうかーい」

 桜井はひょんと穴の底へ飛び降りた。

 すると、そこには六畳程度の空間が広がっている。壁は湿気った石垣で、地面は硬めの土であった。

「隠し部屋……?」

「ほら、あれを見て」

 その茅野が指を差した壁際には、高さが五十センチ程度の石碑が三つ並んでいた。

「何あれ? お墓?」

 特に碑銘は刻まれておらず、何のためのものなのかは一見して解らない。

 茅野はその石碑を見据えたまま得意気な笑みを浮かべる。そして、例の言葉を口から吐いた。


「でも、これで、だいたい、解ったわね」

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