【01】腹パンの人


 二〇二〇年七月七日の夜だった。

 桜井梨沙が最近の日課である懸垂けんすいマシンでのトレーニングを終えると、ベッドの上に投げていたスマホが鳴った。

 タオルで汗をぬぐってから確認してみると、あの弁天沼事件のときの依頼者である浅田柚葉からのメッセージであった。

 文面は以下の通り。



 『突然で申し訳ないんだけど、菅野くんに桜井さんのIDを教えてもいいかな?』



「すが……の……?」

 眉間にしわを寄せて数秒……桜井は思い出す。

「あ……ああ。腹パンの人か」

 菅野亮は小学六年生のときのクラスメイトだった。狐狗狸こっくりさんに憑かれ、桜井に腹パンを食らった事がある。

 中学は別々で、ずっと疎遠だった。

 そのため、同じく小学校の同級生であった浅田柚葉を頼り、連絡を取りたいらしいと理解する。

 しかし、問題はその動機であった。

 桜井は素早く指を滑らせて、メッセージアプリに文字を打ち込む。



 『別にいいけど、何で?』



 ……まさかもう一度、いいのを一発もらいたくなった訳ではあるまいと、いぶかりながら返信を待つ。

 すると、すぐに既読が着いて浅田から返事があった。



 『何か、桜井さんに相談したい事があるらしいよ』



 ……などと、言えば間違いなく心霊案件であろう。

 俄然がぜん興味きょうみの湧いてきた桜井は、浅田に素早く了承のスタンプを送る。

 それから、まもなく菅野からのメッセージが送られてきた。



 『久し振り。ごめん、突然。また桜井さんの力を借りたいんだけどいいかな?』



 再び了承のスタンプを送る。

 続けてメッセージを打ち込んだ。



 『で、今度は何? また何か変なのに取り憑かれたの?』


 『ああ。桜井さんは縺ュ怜って知ってる?』



「んん?」



 『文字化けしてるよ』と返すと、すぐに返信があり……。



 『ュュ文字化ã ア‘縺イ繧ヤヨ縺ュ怜』


 『縺ュ怜縺ュ怜縺ュヤヤ怜縺ュ怜縺ュ怜』


 『縺ュ怜縺ュ怜縺ュ怜縺ュ怜縺ュ怜縺ュ怜縺ュ怜縺ュ怜縺ュ怜縺ュ怜 縺ュ怜縺ュ怜縺ュ怜縺ュ怜縺ュ怜 縺ュ怜縺ュ怜縺ュ怜縺ュ怜縺ュ怜縺ュ怜縺ュ怜縺ュ怜縺ュ怜縺ュ怜……』



「うわ、きっも……」

 桜井は素早く返信を打つ。



 『だいじょうぶ? 取り合えず、スマホで話すのはダメっぽいし、明日、学校終わったら菅野くんの家にいくよ。だから地図ちょうだい』



 すると、すぐに返信があり、地図が送られてきた。

「こっちの話が通じるって事はだいじょぶそうだな……」

 桜井はスマホの画面に指を這わせる。



 『心配なら、消臭剤をぶっかけたらいいよ。本物の霊能者の人が効くって言ってた』


 『撰ユ托キ文字åŒ抵搾カ』


 『あと香りの強いハーブ系もだいたいいける』


 『æ–ゑ­ュュ—å』


 『あとネギとかニラも効く』

 

 『縺ア絲イ繧ウ絲撰ゑ托繝繹喧抵搾』


 『もう寝なね?』


 『縺ュ怜』


 『それじゃ、おやすみー』



 ……それから、すぐに茅野循にメッセージを打った。

 当然ながら、茅野は物凄い勢いで食いついた。




 そして、翌日の放課後。

 まるで、薄墨うすずみを溶かしたような不穏な空模様であった。

 桜井と茅野は藤見市の西側に広がる比較的新しい住宅街の路地を自転車で進んでいた。

「それにしても、その菅野亮なる人物は、かなりの逸材みたいね」

 茅野のその皮肉めいた言葉に桜井は同意する。

「本当だよね。狐狗狸こっくりさんの次は何なんだよって話だよ」

「もしかすると、霊に取り憑かれ易い体質なのかもしれないわね」

「あー……」と桜井は、得心した様子で頷き、

「もし、そうならさあ、どっかの心霊スポットに放り込んでみたいよね」

「それは、流石にやめてあげましょう。やってみたいけれど……」

「もちろん、冗談だよ。やってみたいけど……」

 ……などと、恐ろしい会話を繰り広げながら、住宅街の中ほどにある菅野宅へと辿り着く。

 門の横のブロック塀に自転車を寄せて停めると、玄関まで続くステップをあがり呼び鈴を押した。

 しばらくすると、扉の内側から「はーい」と菅野の母親らしき女性の声が聞こえてきた。

 扉が開き、エプロン姿の女性が姿を現す。

「ええっと、どちら様?」

 そう問われ、茅野が口を開く。

「亮くんはいらっしゃいますか?」

 すると、菅野の母は困り顔で笑う。

「ごめんなさい。亮は今日、具合が悪いみたいで、学校も休んでいて……風邪かしらね? 咳はしていないみたいだけど、こんなご時世だし……」

 桜井と茅野は何とも言えない表情で顔を見合わせる。

 すると、母親の背後だった。三和土たたきの奥の上がりかまちに菅野亮が姿を現す。

「いいよ、母さん。あがってもらって」

「でも……」と難色を示す母親。しかし、菅野はそんな彼女を真っ直ぐに見つめて真剣な声音で訴える。

「お願い。母さん……大事な話があるんだ」

 母親は息子と桜井、茅野を交互に見渡して逡巡しゅんじゅんし……。

「解ったわ。……どうぞ」

 と、二人の事を招き入れた。

 菅野は少しやつれてはいたが、思ったよりも元気そうだった。

「久し振り。桜井さん……それと……」

 そう言って、もう一人の見知らぬ顔に目線を向ける。

「初めまして。茅野循です」

 茅野がぺこりと頭をさげると、桜井は自慢げに胸を張る。

「循は、この手の問題に関しては、あたしより詳しいし、頼りになるんだよ」

「それは、頼もしいな……」

 と、菅野は疲れた表情で微笑む。

「取り合えず、あがってよ」

 二人は靴を脱ぎ、菅野宅にお邪魔した。




 菅野の部屋はモノトーンを基調としており、小綺麗に片付いていた。

 室内中央の硝子張りの座卓を挟んで、彼と向かい合う二人。

 菅野亮の顔つきは小学校の頃の面影を残しつつ、より精悍せいかんに成長していた。

 きっと、またモテてるんだろうな。女の子にも、霊にも……などど、桜井は思ったが口には出さなかった。

 ともあれ、彼がいったん部屋を出て、グラスに入ったアイスティーとコンソメ味のポテトチップスの入った菓子箱を持って再び戻ってくる。

 桜井はさっそくポテトチップスをパクつき始めてしまったので、茅野の方が話を切り出した。

「それで、梨沙さんの力を借りたいという話だけど、いったい、何があったのかしら……?」

 菅野は表情を曇らせ、たっぷりともたついたのちに、その質問を口にした。


「二人はさぁ……“禁后・・”って知ってる?」

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