【03】発狂する日常


 ちょうど、コンビニの駐車場で騒動が起こる少し前だった。

 清戸町の山沿いに広がる犬塚地区にて、地区会長の師崎康史もろざきやすしは、自宅のガレージでぼんやりと妻の名前を呟いた。

「勝江……」 

 彼の右手には、古びた革の首輪に繋がれたリードが握られていた。

 その首輪へと目線を落としながら、ぼんやりと彼は振り返る――。




 近頃、彼が長年連れそった妻の勝江の様子がおかしい。

 その兆候ちょうこうがあらわれ始めたのは、四月の終わり頃に飼い犬の太郎が老衰で亡くなってからの事だった。

 勝江は太郎の事を可愛がり、毎日三キロも自宅から離れた巨頭地蔵の祠へと散歩へいくのを日課にしていた。

 余程の悪天候以外は、この習慣を取りやめた事はなく、そのお陰か勝江は心身ともに健康であった。

 しかし、太郎が死んでから余程ショックであったのかふさぎ込み、飯も喉に通らぬ様子だった。完全なペットロスである。 

 そんな状態が数日間続いたかと思うと、今度は太郎が生前つけていた首輪とリードを右手にぶらさげて、どこかへ出かけるようになった。

 どうも、勝江は太郎がまだ生きていると思い込んでおり、巨頭地蔵の祠へと毎日向かっているらしいと知り、康史は頭を抱える。

 いよいよ、寄る年波には勝てずにボケたか……と覚悟を決めたのだが、その矢先であった。

 突然、勝江は太郎について、いっさい何も言わなくなった。そればかりか、太郎の形見であるリードと首輪をガレージの瓦落多入がらくたいれの段ボールに放り込んで触れようともしない。

 代わりに突然、コロナウィルスの感染予防に関して口煩くちうるさくなり始めた。

 鼻を出さずにマスクをしろ、手洗いうがいを忘れるな……家の中だけでやってくれるなら、小煩こうるさいだけで特に問題はなかった。

 しかし、脳梗塞のうこうそくで倒れた濱田作治はまださくじの家に、怒鳴り込みにいったと聞いたときには閉口した。

 何でも作治の息子が緊急事態宣言明けに帰郷していたのだという。これを勝江は不要不急だとして、たいそう憤慨していた。

 康史は内心で、父親が倒れたなら仕方がないじゃないかとは思ったが、勝江は作治の息子が東京に帰ったあとも批判の手を緩めようとしなかった。

 親しい友人たちにある事ない事を言い触らし、そのせいで“濱田作治が倒れたのはコロナウィルスに感染したから”などという事実無根の噂が広まる事になってしまった。

 お陰で濱田夫妻は、すっかりと肩身の狭い思いをしているらしい。 

 更に豹変ひょうへんした勝江は、六月二十日におこなわれる犬塚祭の中止にも、間接的に影響を及ぼした。

 犬塚祭というのは清戸町住民しか知らないような、ささやかな規模の祭である。

 地区の中央にある大己貴神社おおなむちじんじゃの正面に延びた通りに、十数軒の屋台が並び、赤獅子神楽や子供たちによる台輪だいわなどが執り行われる。

 そして、その音頭を取っていたのが犬塚地区会長である康史であった。

 当初はコロナウィルスの感染対策を理由に屋台の出店しゅってんや台輪などは中止にする予定であったのだが、長年の伝統となっている赤獅子神楽はおこなわれるはずだった。

 しかし、濱田家へのコロナ差別が始まってから状況は一変する。

 犬塚地区住民の間で、赤獅子神楽も中止にするべきという声が大きくなっていった。

 これについては『濱田家に厳しく当たっているのだから他の物事に関しても厳しく当たるべき』と、住民の意識が悪い方向に高まった事、ひいては『自分たちも濱田家のように差別を受けたくない』という集団心理が働いた結果であった。

 当然ながら、康史も赤獅子神楽の開催を推す訳にはいかなくなった。

 こうして、ついに二五〇年間、この犬塚地区で連綿と受け継がれてきた伝統に終止符がうたれたのであった――。




 康史は我に返り、右手のリードをそっと段ボール箱の中に戻した。

 再び母屋に戻ろうと、ガレージの入り口から外に出ようとしたときだった。

 開かれたままだったガレージのシャッターの向こうを横切る勝江の姿があった。

「勝江……どこいくんら?」

 声を掛けると勝江は立ち止まり、にっこりと笑う。

見蔭医院みかげいいんらよ」

「あ、あんなところに何をしにいくんら?」

 恐る恐る発したその質問に勝江は笑顔で答える。

「ちょっと、風邪ひいたみたいでなぁ。先生に診てもらおうと思って」

 康史は言葉を失う。

 見蔭医院は数年前に廃院となり、打ち捨てられたままになっていた。そんな場所に何をしにいこうというのか……。

 勝江は戸惑う夫の様子など気にする事もなく、ガレージの前から歩き去っていった。

 残された康史は……。

「勝江……」

 我に返り、路地の先へと目線を向けるが、既に妻の姿はなかった。まるで煙のように消え失せてしまったかのようにも思えた。

 やはり、妻はどこかおかしい。

 これが単に頭がボケたとかの話ならば、むしろ問題はない。

 しかし、どうにも、ここ最近の勝江は、中身だけが入れ替わった別人であるかのように思えた。

 言い様のない不吉な予感に襲われ、康史は大己貴神社の宮司である実松茂親さねまつしげちかに急いで連絡を取った。



 その頃、師崎家から八百メートルほど離れた国道沿いのコンビニでは……。


 桜井が車道に飛び出す寸前だった男の腰にしがみつき、寸前で歩道に引き戻す。

「おじさん、落ち着いて……」

 その拍子にもつれて転んでしまう。

「あああ……やめろ! やめろ! 化け物ッ!」

 もがき、暴れる白ジャージの男。立ちあがり、おぼつかない足取りで、歩道にそって逃げようとする。

「ちょっと、おじさん……」

 桜井も立ちあがり、その右腕をつかんで無理やり振り向かせる。

「こういうときは……」

 ゴムタイヤをハンマーで殴りつけたときのような音。

 そして「ウグッ!」という男の呻き声。

 もちろん、腹パンである。

 男は腹を抑え、青ざめた顔でうずくまった。

「よし、うまく入った」

「梨沙さん、大丈夫かし……いや、相手の方が大丈夫じゃなさそうね」

 あとからやってきた茅野がうずくまる男を見て苦笑する。

 同時にパトカーのサイレンの音が遠くから近づいてきた。



 白ジャージの男は警官に取り押さえられ、パトカーに乗せられた。

 腰を屈めて痛みに顔をしかめており、正気に戻っているか否かはよく解らなかった。

 そして、桜井が駐車場で警官と話している間、茅野はコンビニの店内で居合わせた客に、それとなく何があったのかを聞き出す事にした。

 それによると、あの白ジャージの男はコンビニのレジの会計中、唐突に叫びだしたのだという。

 後ろに並んでいた別の客が心配して声をかけると、その客を殴り倒して店外へと逃げ出したらしい。

 ともあれ、茅野は情報収集を済ませると、桜井の分と自分の飲み物を購入して店外へと出た。

 すると、そのとき茅野の目に映ったのは、駐車場から走り去ってゆく銀のミラジーノであった。

「え……?」 

 唖然とする茅野。

 その運転席にはハンドルを握る桜井。

 そして、助手席には自分自身の姿があったからだ。

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