【01】自粛警察


 二〇二〇年五月四日。

 この日はまるで初夏のような気温であるにも関わらず、空一面は薄墨色うすずみいろであった。

 生温い不吉な微風が、田植を控えた田んぼから泥の臭いを立ちのぼらせている。周囲に人の気配はまったくない。遠く離れた場所で、豆粒くらいに見える耕運機こううんきがエンジンを唸らせているのみである。

 そんな田園風景を割って延びる砂利道だった。

「ほれ……どこ、いくの、待ちなせ」

 そう言って笑うのは、白髪をぴたりと後ろに撫でつけた老婆であった。

 その目の輝きは虚ろであったが背筋は伸びており、動作は矍鑠かくしゃくとしていた。

 彼女の右手にはリードが握られている。それだけを見れば、犬の散歩途中だと誰しもが考えるはずであろう。

 しかし、そのリードをたどっても犬の姿はなく、古びた赤い革のベルトがぶらさがっているのみであった。

「ほれ、ほれ……太郎、今日も元気だなあ……」

 老婆はしっかりとした足取りで、砂利道を進む。

 その先は田園の端に連なる小山の裾野に伸びており、赤い鳥居が見えた。

 鳥居の奥には、深い茂みを割って延びる細い坂道があった。

 それは、あの巨頭地蔵の祠へと通じる参道だった。




 二〇二〇年五月二十五日の事だった。

 濱田武はまだたけるは緊急事態宣言が明けると、即座に関越自動車道をくだり、東京八王子から郷里の清戸町へと向かった。

 彼の父が緊急事態宣言中に倒れ、いても立ってもいられなかったのだ。脳梗塞のうこうそくなのだという。一命はとりとめたが、重い障害を残す事となった。

 父はよわい七十を過ぎている。いつかこんな日もくるだろうと覚悟はできていた。

 しかし、どうにも母親の方が気がかりであった。

 祖父母はずいぶんと前に亡くなっており、遠方にいる親戚縁者とはめっきり付き合いが途絶えている。

 独りで心細いだろうし、何かと大変なはずだと心配になって電話をかけてみるが、本人は気丈にも大丈夫と言って譲らない。

 本来ならすぐにでも休みをとって実家へ飛んで帰るところであったが、おりしものコロナ禍である。気軽に帰郷する訳にもいかない。

 そんな訳で、武はPCR検査を受けて陰性の結果が出たのちに、緊急事態宣言が明けるのを待って、帰郷する事にした。

 そうして、実家に到着したのは二十五日の二十時頃になった。

 早々に「何で帰ってきたの……」と批難ひなんがましい第一声を受けはしたが、母親は嬉しそうで、元気そうに見えた。

 話を聞いてみると、父は病院におり、もうすぐで退院してくるのだという。そのときに向けて、現在はケアマネージャーと話し合いをしているそうだ。

 案外、しっかりとやっているらしいと解り、ほっと胸を撫でおろす武。

 この日は一泊し、明日の朝に病院へと見舞いにいく事にした。

 そして、休みは三日だけだったが、どうせ在宅でのテレワークを継続中だったので一週間ぐらいは、実家で過ごす事にした。

 その日は久々に実家の風呂へと浸かり、十年以上前に物置と化した自室で布団を敷いて寝た。

 それから一夜が明けて、二十六日の朝だった。

 武は起床して身支度を終えると、居間でテレビを見ながら、久し振りに母親の作った何という事のない朝食に舌鼓したつづみを打つ。

 すると、玄関で呼び鈴が鳴った。

 既に武が目覚める前に自分の朝食を済ませて洗い物をしてた母が、水道の蛇口を閉めて、エプロンで濡れた手をふきながら玄関の方へと小走りで向かう。

 武は特に気にせず、朝のワイドショーをぼんやり眺めながら、塩コショウを振りかけた半熟の目玉焼きに箸を突き立てた……その直後であった。

 何やら玄関の方から怒鳴り声が聞こえた。

 続いて母の弱々しい声が聞こえる。

 武は驚いて箸を置き、玄関へと向かった。

 すると、一人の老婆が母親と向き合って声を張りあげていた。

 武が「どうしたの?」と、恐る恐る母に声を掛けて近づくと、老婆は血走った双眸そうぼうで彼を睨みつける。

「何で、お前、こっちに帰ってきたんだ! コロナでわしら年寄りを殺すきかッ! この人殺しめッ!」

 と、絶叫した。

 ここで武は己の失敗に顔をしかめる。

 昨日は家の前に八王子ナンバーの車を停めたままだった。恐らくそれを見て、怒鳴り込んできたのだろう。

 母は「武は実家の事を心配してくれて帰ってきてくれただけで、悪いのは全部、私で……」などと、しどろもどろにフォローしてはくれていたが、相手の怒りはいっこうに鎮まる様子を見せない。けんもほろろであった。

 武が「落ち着いてください……」と割って入り、

「こちらへくる前に検査も受けましたし、緊急事態宣言も明けました。感染対策にも気を使っており、家からまだ一歩も出ていません」

 などと、釈明しゃくめいをする。

 しかし、老婆はやはり聞く耳を持ってくれない。

「五月蝿い、そんなもん、関係あるかいッ! みんな、このご時世で色々我慢してるっていうのに、お前だけなんで特別なんだ!? ふざけるのも大概にしろや!」

「いや、父の見舞が済んだらすぐに帰りますから……」

「五月蝿い言ってるだろ! 四の五の言わず、はよ東京帰れや! 今すぐに! 今すぐ! ほらッ!」

 そう言って老婆は武に掴みかかろうとする。

 それをどうにか母が押し止め、何とか老婆を玄関の外に追い出した。

 それから老婆は一時間近くも玄関前で大声を張りあげていた。


 けっきょく、武は父の見舞が済んで早々に、その日のうちに東京へと戻る事になった。




 二〇二〇年七月五日の白昼。

 それは清戸町の端にひしめく古い住宅街と、田園地帯を仕切るように横たわる、国道沿いのコンビニであった。

 自動ドアが開き、血相を変えた男が店内から飛び出してきた。

 歳の頃は三十歳ぐらいだろうか。白いジャージ姿で、足にはウォーキング用のシューズを履いている。

 コンビニの軒下から出ると振り返り、自動ドア越しに店内をのぞき見てから叫び散らす。

「ああああ……何これ……!? 何だよこれ!!」

 車から降りたばかりのスーツ姿の女が怪訝な顔で男の方を見た。

 すると、男はその女の顔を見るなり、盛大に絶叫する。


「ああああ……化け物ッ!!」


 そのまま駆け出す。

 男は駐車場を横断し、車道へと飛び出そうとした。

 そこへタイミング悪く工事現場で使う砂檪されきを積んだトラックがやってくる。

 誰もが次の瞬間に起こる惨劇を予測した。

 しかし、車道へと出る寸前の男を歩道へと引っ張り戻した者がいた。


「おじさん、落ち着いて……」


 桜井梨沙であった。

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