【14】家族
それは宮野颯天が意気揚々と家を出た後だった。
宮野優香は夫の
そう決心した切っ掛けは、颯天であった。朝食の最中、颯天が妙に沈んだ顔をしていたからだ。
優香はそれが己のせいであると敏感に感じとっていた。自分の嘘が颯天を傷つけている……。
ずっと、浮かれた様子だった息子に申し訳ない思いが込みあげてきた。
どうにか無理やり笑顔を作り、颯天を送り出したあとも罪悪感は消えなかった。
このままいけば、本当に取り返しのつかない事になるかもしれない。上手く取りつくろう事ができたとしても、自らの心が今までの幸せな日常に戻れなくなるかもしれない。
そんな予感に耐えきれなくなり、優香は啓介にすべてを打ち明ける気になった。
優香の知る夫は温厚で優しいが、真面目過ぎて潔癖なところが少しあった。
彼が自分の過去を受け入れてくれるかは、優香にもよく解らなかった。
しかし、それで、今の幸せが壊れてしまったとしても、遅いか早いかの違いで同じ事だと彼女は思った。
夫とダイニングのテーブルを挟んで向き合い、自分が博愛教会の信者であり教祖と関係を持っていた事や、一九九九年の集団自殺の生き残りであった事を明かした。
更に知人の葬儀に出席するというのは嘘で、同じく元信者から脅迫を受けて呼び出された事を正直に告白した。
啓介は一言も口を挟まずに、優香の話を聞いていた。
そして、その表情は話が進むごとに、目に見えて険しさを増す。
そんな彼に見つめられているだけで、優香の心は張り裂けそうになる。
それでもどうにか最後まで語り終え、涙を堪えながら「ずっと、嘘を吐いていて、ごめんなさい」と、謝罪の言葉を吐き終わったあとだった。
夫の口から、どんな罵倒の言葉が吐き出されるのか、優香はそのショックに備えて身体をこわばらせる。
しかし、啓介の第一声は……。
「録音はしたのか?」
だった。
優香は夫が何を言っているのか解らず、ぽかんとしていると、彼は多少苛立った様子で言葉を続けた。
「だから、その君を脅迫してきた元信者からの電話だよ」
優香は首を横に振る。
すると、啓介は溜め息を吐いて肩の力を抜いた。
「まあ、いきなり冷静な対応をしろといっても無理な話か。仕方がない。でも次に向こうから連絡があったときは、必ず録音をするんだ。何かあったときの証拠になる」
そう言って、立ちあがりダイニングをうろうろと歩きながら独り言ちる。
「……警察に行くか……いや、しかし、まだ向こうが何かしてきた訳ではないし……でも、やはり、話をするだけしてみるのも……」
そこで優香は夫に尋ねる。
「怒っていないの?」
すると、夫は
「そりゃ、頭にきている。こっちは、そんな昔の事なんか関係なく平和にやっているというのに、そいつは何が目的なんだか。君の秘密を盾にして、何をやらせようとしているのかは知らんが許せる訳がない」
……などと言う。
そこで優香は、既に啓介が自分の過去を知っていたのだと気がついた。
たまらなくなって立ちあがり、夫に抱きついて声をあげて泣いた。
優香がひとしきり泣き終わったあと啓介が颯天に電話をかけて帰宅を促す。
万が一、息子に何らかの危害が及ぶのを恐れたためだ。
しかし、いつもは聞き分けのよい颯天であるが、この日に限って啓介の言う事を中々聞いてくれない。
しまいには、少しキレ気味で電話を切られてしまう。
啓介はスマホを持ったまま暗い顔で
「すまない。もう少し言い方を考えるべきだった」
ここで、夫も動揺しているらしいと優香は悟る。
彼女は自分の事で心を痛めて悩んでくれている啓介に、再び感謝の念を抱く。同時に
けっきょく、このまま颯天の帰宅を待ってから、彼を啓介の実家にいったん預けて警察へ行こうという話になった。
現在、緒沢は待ち合わせ場所の果南市にいるはずである。つまり、優香が要求に従わなかった事に気がつき、自分たちに何か直接的な危害を加えようとしてくるのはもう少しあとだろうと考えた。
用心するに越した事はないが、まだ時間的な余裕はあるので慌てる事はないと、宮野夫妻は冷静になった。
そして、そのまま小一時間ほど待っていると、自転車のペダルをこぐ音が近づいてきて家の前で止まる。ガレージの方から物音が聞こえてきた。
「颯天……」
優香は玄関へと走る。啓介も続く。
扉が開いた瞬間、優香は息子に抱きついた。
涙がとめどなく溢れる。
そして、彼女は思い出す。颯天を産んだ日の事を……。
それは今から九年前の
颯天は出産早々、へその緒が身体に絡みつく
本来なら特別な措置が早急に行われ、事なきを得る場合がほとんどであった。
しかし、折しも出産の直後に発生した東日本大震災の影響により、病院の設備の一部が使えず、効果的な処置が行えなかった。
結果、颯天はかなり危険な状態に
このままでは、颯天は産声をあげる事なく
しかし、奇跡的に颯天は一命を取りとめ、二〇一一年三月十一日の十八時三分に産声をあげた。
そして、何らかの障害が残る事もなく健やかに成長し、幸せな人生を送る事となった――。
「お母さん、どうしたの? ねえ……」
その声で我に返る優香。同時に誰よりも愛しい奇跡の子の瞳を見つめながら思う。
この表情を理不尽に曇らせる訳にはいかない。その思いがあったからこそ、自分は夫にすべてを告白し、解り合う事ができたのだと……。
「颯天、ありがとね……」
そうして、頬を涙で濡らしたまま、我が子の頭を優しく撫で回すのだった。
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