【13】 ただのしかばねのようだ


 蛍光灯の笠の揺れが止まらない。

 ゆらゆら……ゆらゆら……その下にぶらさがったものに釣られて揺れ続ける。

 畳に倒れた椅子の上を影がいったりきたりする。まるで、古い時計の振り子のようにいったり、きたり……。

 その光景を部屋の戸口から眺めていた緒沢恵は、絶望のあまりひざを突く。

 そのぶらさがったものとは、彼女の最愛の息子である緒沢神人であったからだ。

「何で……なの……神人」

 ここまで大切に愛をそそいで育ててきたつもりだった。

 この世界の救世主メシアになれるように、心血をそそいで導いてきたつもりだった。

 その努力がすべて無に帰した瞬間であった。

「あああ……何て事を……何て事を……」

 最後の聖餐サクラメントの導きなくしての死では、次の次元へと向かう事ができない。その魂は地獄へと落ちてしまう。彼女の信じる教義では、そうなっていた。

生き返らせなくては・・・・・・・・・……生き返らせなくては・・・・・・・・・……」

 神人の肉体が腐らないようにしなくてはならない。


 早く……早く……早くしなくては……。


 緒沢は慌てて倒れていた椅子を立てて、その上に乗って蛍光灯のケーブルに巻きついていたビニールロープを外した。

 どさり、と息子の身体が力なく畳の上に落下する。

 そこで緒沢は、神人の右手に握られていた紙切れの存在に気がつく。

 緒沢は恐る恐る、その紙切れを手に取って開く。そこには、幼い字でこう記されてあった。


 『幸せなふつうの人生を送りたいので死にます』


 緒沢は盛大に絶叫した。




 茅野は気絶した緒沢恵を結束バンドで後ろ手に縛りあげた。

 それから、二人で木乃伊の検分に取りかかる。

 すると、早々に茅野が木乃伊の首元に巻かれている包帯に気がついた。

 茶色い汁が滲んでおり、それが乾いてごわごわになっていた。持参したピンセットで丁寧に剥がしてゆく。

 すると……。

「梨沙さん見て……」

「ん? なになに?」

 桜井も木乃伊の首元をのぞき込む。

「これ、縊溝いっこうじゃないかしら……?」

「どんだけ……?」と、桜井が右手の人差し指を横に振る。

「そっちじゃないわ。首吊りをしたときにできる紐のあとよ。この角度からすると、定型縊死ていけいいし……この木乃伊は足が完全に床から離れている状態で首を吊ったと思われるわ」

 そう言って茅野は、ビニール手袋をした左手で木乃伊の頭をぐらぐらと揺する。

「……ほら、見て。首がやけにグラグラだと思ったら、これ、頸椎けいついを損傷している。完全に折れてるわ。首に縄をかけて踏み台や高所から勢いよく飛び降りたのね」

「そういえば、楪ちゃんの友だちの宮野くんだっけ? 彼も首にあざが浮き出ていたけど」

 そこで茅野は、拘束されたままうつ伏せで気絶している緒沢へと目線を移した。

「この人も、唇の右端に黒子があるわね……」

「じゃあ、もしかして、この木乃伊が宮野くんの前世?」

 その桜井の言葉に茅野は「どうかしら?」と、釈然としない表情で首を傾げる。

「どしたの? 循」

「ずっと、気になっている事があるの」

「なになに?」

 桜井に促され、茅野は木乃伊の頭部に手を置いたまま言葉を発した。

「宮野くんの夢の中にあった津波の映像……」

「ああ、うん。楪ちゃん、そんなのあったって、言ってたね」

「梨沙さんは、津波といえば、何を連想する? 町を飲み込む津波、そして巨大な渦に巻き込まれるタンカーと言ったら?」

「それは、まあ東日本震災だけど……」

「でも、それが前世の光景だとしたら、おかしいわ。そうなると、宮野くんの前世・・・・・・・にあたる人物は・・・・・・・二〇一一年・・・・・の三月十一日・・・・・・までは少なくとも・・・・・・・・生きていた事になる・・・・・・・・・

「うん」

「でも、宮野くんの学年は二〇一〇年の四月二日生まれから二〇一一年の四月一日生まれまでよ。彼の誕生日が何日かは知らないけれど、二〇一一年の三月十一日に死んだ人間が宮野くんに転生するのには間に合わない」

「ああ。宮野くんの誕生日が二〇一一年の三月十二日から四月一日の間だったとしても、もうお母さんのお腹の中にいないとおかしい訳か」

「そうね。ならば、その津波の映像は何なのか? もっとも、夢なのだから、その津波の映像が現実の光景ではないという可能性は充分にあるのだけれど」

 と、言った次の瞬間だった。


 ……バキッ


 妙な音が鳴り響いた。

「何、今の音」

「さあ?」

 茅野が怪訝けげんな表情で左手を放した瞬間だった。

 木乃伊の頭が椿の花のように落ち、膝の上に乗った。




 時間はその日の午前中にさかのぼる。

 サビキ釣りの準備を済ませ、戸田楪に簡単なレクチャーをし、釣り糸をたらしてすぐだった。宮野颯天のスマホに父親の啓介けいすけから電話があった。

 何だろうといぶかりながら出てみると、父は開口一番に「すぐに帰ってこい」などと言う。

 当然、従いたくなかった颯天は、どうして帰らなければならないのか不機嫌な顔で理由を尋ねた。

 すると、啓介はたっぷりと逡巡しゅんじゅんしたのちに「兎に角、お母さんが大変だから帰ってこい」と言った。

 訳が解らなかったが、出掛けに見た母の暗く沈んだ表情を思い出す。

「お母さん、病気か怪我でもしたの?」と問うが啓介はそれを否定する。

 いったい何なのだと問うも「兎に角、すぐに帰ってこい」の一点張りでらちが明かない。

 渋々ながらも了承すると、啓介はどういう訳なのか、かなり慌てた様子でこう言った。

「迎えにいってやるから居場所を教えろ。どの辺で釣ってる?」

 その有無も言わさぬような強い口調に少し腹が立ち、颯天は苛立ちの混ざった口調で言い返した。

「お母さんが大変なら、わざわざ迎えにこなくていいから。一人で帰れるし」

 父親が次の言葉を紡ぐ前に電話を切った。

 そのあとすぐに楪に事情を説明して詫びる。彼女は釈然としない様子ではあったが笑って許してくれた。

 しかし、颯天の胸の中は、楪に対する申し訳なさでいっぱいだった。

 それから、準備したばかりの釣具を片付けて二人で帰路へと着く。

 父からの電話なのか、スマホはリュックの中でずっと震えていたが無視した。

 その帰り道で、颯天は楪に昨日の夢の内容を話して聞かせる。

 そうして、楪と別れたあと、ふと颯天は不安にかられた。

 ……そもそも、病気でも怪我でもないのに大変というのは、いったいどういう状況なのか。

 父の様子も気になった。普段は温厚で冷静沈着な彼らしくもない調子であった。

 そもそも「クラスの女の子と釣りに行く」と言ったら、楽しそうに大笑いしながら送り出してくれたのは、他ならぬ父であった。

 颯天には、ついさっきの電話口の父親が別人であるかのように思えてきた。

 颯天の自転車は住宅街の路地をひた走り、もうすぐで自宅に辿り着く。

 リュックの中のスマホは、すでに静まり返っていた。

 どんよりとした黒雲のような心持ちで、颯天はガレージに自転車を止めてから玄関を潜り抜けた。

 すると「ただいま」と言う前に、突然、何者かが覆い被さってきて颯天の事を抱き締めた。


「颯天……」


 母の優香であった。

 驚く颯天を他所に優香はそのまま泣きじゃくりながら「ごめんなさい」と繰り返した。

 颯天は唖然としながらされるがままになっていると、上がりかまちに立った啓介が、ほっとした様子で言った。

「おかえり」

 颯天はこの状況の意味が解らず、目を白黒させながら、いつものように「ただいま」と返した。

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