【03】過去からの呼び声


「ただいま」

 と、玄関で声がしてリビングの扉が開いた。

 やってきたのは、ランドセルを背負った宮野颯天であった。

 その最愛の息子を仕切り棚の向こうのキッチンから見て、今年で三十七歳になる宮野優香みやのゆうかは微笑む。

「おかえりなさい」

 すると、颯天はランドセルと口元のマスクを男児らしい乱雑さで、ソファーの上へと脱ぎ捨てる。

 キッチンへとやってきて流し台で手洗いと、うがいを始めた。

 それから、冷蔵庫を開けると紙パックのオレンジジュースを手に取り、それを硝子のコップにつぎ始めた。

「お母さん、何を作っているの?」

 颯天が調理台をのぞき込んで目を輝かせる。

「あーっ、これ、この前の鶏肉のやつ?」

「そうよ。鶏胸肉の生ハム。お肉、安かったから、多目に買ってきたの。作っておけば、いつでも食べれるでしょ?」

「やったぁー」と無邪気に喜ぶ息子の顔を見て、相好を崩す優香。

 本当に幸せだった。

 旦那はとても優しくて誠実だし、このご時世でも稼ぎは安定している。息子の颯天は素直で可愛く手もかからない。

 モテるらしく、けっこうな頻度ひんどで仲のよい女の子たちと遊びに出かけるのを見て、ほんの少しだけ将来に不安を覚えたりするが、それもまた平和であるからこその悩みだろう。

 ……この日も優香は、ふとした日常の一幕で幸せを噛み締めていた。

 すると、そこでリビングの方から固定電話の呼び出し音が鳴り響く。

 優香は電話に出ようとしたが調理の途中であったため、自分の手が汚れている事に気がついた。

「颯天、お願い」

「解った」

 息子は二つ返事でリビングへ向かうと、ローテーブルの上にジュースの入ったグラスを置いて、棚の上にある固定電話の受話器を取った。

「はい。もしもし……」

 沈黙。

 そして、颯天が受話器を耳から離して、キッチンの優香の方を向いた。

「お母さんに電話」

「私に?」

 きょとんと首を傾げながら、優香は流しのレバーを手の甲で押してお湯を出す。いそいそと手を洗った。

「誰から?」

 問いかけながら、受話器を持って待つ颯天の元へと向かう。

「オザワさんだって。女の人だよ」

「オザワ……?」

 すぐに顔が思い浮かばない。

 受話器を受け取り、耳につける。すると……。

『今のがあんたの息子? ウチの・・・と違って、ずいぶんとバカそうだね』

「は!?」

 突然、鼓膜を震わせた暴言に思考が凍りつく。

 唖然としていると、電話の相手は含み笑いを漏らして言葉を続ける。

『……久し振りだね。サキエル・ゴトー・ユウカ』

 そのしわがれた声を耳にした宮野優香は大きく目を見開く。

『……いや、今はサキエル・ミヤノ・ユウカか……ふふふ』

 ゴトー……後藤は、宮野優香の旧姓だった。そして、サキエルは博愛教会に入信したときにつけられる洗礼名ホーリーネームである。

 そこで、ようやく受話口から聞こえる声と、記憶の中のある人物との顔が結びつく。

「……緒沢おざわ……めぐみさん……?」

 彼女と宮野優香は共に、あの一九九九年に起こった集団自殺の生き残りであった。




「……何の用ですか?」

 緊張で優香の表情がこわばる。それを颯天が不安げな眼差しで見つめている事に気がつき、彼女は受話器を耳から離して手で押さえながら言う。

「ちょっと、大事なお電話だから、あっちへいってなさい」

 颯天は逡巡しゅんじゅんしたのち、渋々といった様子で頷く。

 「じゃあ、部屋で勉強してくる……」と言い残し、ランドセルとグラスを持って勉強部屋をあとにする。

 その姿を見送って、再び受話器を耳に当てて口を開く。

「どこで、この番号を……」

『徳元に聞いたんだよ』

 優香は彼ならば、この家の電話番号を知っていてもおかしくないと歯噛みした。

 徳元亮二とくもとりょうじはフリーライターで、当時の博愛教会に潜入取材をしていた。彼もまたあの一九九九年の生き残りの一人であった。

 そして、徳元は二〇一二年に自宅マンションの一室で惨殺されている。

 その彼を殺したのが、たった今、優香が電話で言葉を交わしている緒沢恵であった。

 緒沢は事件後、すぐに逮捕された。

 そして彼女の責任能力の有無が裁判の焦点となっていた事までは知っていたが、けっきょくどんな判決がくだったのかまでは把握していなかった。

 あの博愛教会に関する事をすべて忘れたかった優香は、自ら情報をシャットアウトしていたのだ。

 しかし、こうして今、電話の向こうに彼女がいるという事は、犯行当時の彼女には責任能力がなかったと判断されて減刑されたのだろう。優香はその事を悟り、心の中でなげいた。

「それで、いったい、どういったご用件で……」

 受話口の向こうで緒沢が鼻を鳴らした。

『決まっているだろう? そろそろ、こっちに残された者としての使命を果たそうと思ってね』

 その言葉を聞いた優香の顔色が青ざめる。

「使命って……」

 すでに優香の心は教団から離れていた。当時の自分がいかに愚かであったかを自覚していた。

 しかし、受話器の向こうの緒沢は、未だに信じているのだ。

 博愛教会を……御鏡真神の教えを……。

 心の底から怖気が走る。

 そんな彼女の心中などお構いなしに、緒沢は滔々とうとうと言葉を紡いだ。

「……この終わってしまった世界に残された“低次元人”たちを救うんだよ。私たちで。だから、あんたに協力して欲しいんだ」

 低次元人とは末期の博愛教会内で、頻繁ひんぱんに使われていた言葉である。意味は博愛教会の信者以外の人間を指す。

 優香も信者であった当時は、何の疑問も持たずにこの言葉を使っていたが、今耳にすると背筋が震えるほどの嫌悪感を覚えた。

 自分たちが特別で、それ以外の価値観を持つ者は低俗である……そういった幼稚で薄汚い優越感と差別意識がありありと感じられた。

 優香は恐怖と嫌悪をこらえながら、喉の奥から声をしぼり出す。

「……もう、その……私は、関わりたくありません。あの頃の事は、もう……」

『じゃあ、あんたが一九九九年前の生き残りだって、旦那と子供にバラすよ? 言ってないんだろう?』

 優香は絶句して息を飲んだ。

 それは、優香がずっと隠し続けていた事だった。

 当時、十六歳だった彼女もまた教祖である御鏡真神と関係を持っていた女性信者の一人であった。

 あの頃は、何の疑問も抱かずに御鏡へと身を委ねていた。

 しかし、今は思い返すだけで吐き気がした。そして、もしも旦那にこの事を知られたらと想像するだけで頭痛がした。


 “セックスカルト”または“自殺教団”


 そんなものに自分が心酔していたと知られたら……。

 それを若気の至りなどと片づけて開き直れるほど、優香のメンタルは強靭きょうじんではなかった。

『……あんたの旦那は、愚かな低次元人だからね。きっと、理解なんかしてくれないだろうね……』

「いやだ……」

 まるで、幼子のように涙目で頭を振る優香。

『心配はいらないよ。まずは真神様の教え通り行動で示せばいい。私たちが正しい事をやるんだよ。そうすれば、きっと旦那も理解して、我々の仲間になってくれる』

「嫌です。嫌……もう、嫌です」

 今は満ち足りていた。

 あの頃なんかに戻りたくなかった。

 この幸せを手放したくなかった。

『明後日に見返村の教会へ来て。そこで、詳しい“人類救済計画”について話しましょう』

「そんな……明後日だなんて、急に……」

『急じゃないでしょう!?』

 唐突に緒沢が叫んだ。

『明後日は、あの最後の聖餐サクラメントの日……。それくらい、あんたも覚えているはずよ』

 因みに最後の聖餐サクラメントとは、あの集団自殺の事を指す。

『……それとも、本気で忘れていたの?』

 呆れた様子の緒沢。

『……これは、再教育が必要かもねぇ……』

 そう言って、含み笑いを漏らした。優香はついに泣き始める。

「お願い……お願いします。もう許してください」

 しかし、緒沢にその言葉を聞き入れる様子はいっさいない。

『兎も角、明後日。教会の大広間で待ってるわ』

 そこで電話は切れた。




「兎も角、明後日。教会の大広間で待ってるわ」

 廃墟となった大広間で、白い御髪の老女は二つ折りの携帯を耳元から離した。

 そして、神人の華奢きゃしゃな両肩に手を置いた。

「神人……いよいよ、明後日だよ。明後日、ついに、教会が復活する……あんたが、この終わってしまった世界のメシアになるんだよ?」

 すると、唇の右端に黒子ほくろの浮いた口元が狂気染みた形に歪んだ。

「うん。僕、頑張るよ。お母様」

 その妙に幼い口調のあとで、高らかな笑い声が響いた。

「本当にあんたは、いい子だねえ……」

 老女はそう言って、フードに包まれた神人の頭をいとおしげに撫でるのだった。

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