【06】鬼の正体


 松岡芳光は地下室をあとにすると、一階までの階段を慎重な足取りでのぼった。

 まずはこの建物を抜け出して外部との連絡手段を確保する。

 警察などの第三者に助けを求めると、浮気発覚のリスクが高まる。

 しかし、もうそれは致し方ない事だろうと松岡は腹をくくった。

 地下室の天井から聞こえてきた怒声。

 更に、あのリカのおびえた瞳。

 彼女の旦那は、とんでもない異常者であろう。

 そもそも、この法治国家である現代日本で、誘拐して監禁した相手から金銭を巻きあげるなどという犯罪をおこなう者がいる事自体が、松岡にとっては衝撃的であった。

 怖気おぞけに身を震わせながら、彼は一階へと辿り着く。

 薄暗く昼なのか夜なのかはよく解らない。

 白い壁に板張りの廊下が左右に延びていた。

 右側は二階への階段や部屋の扉、そして突き当たりには磨り硝子のはまった引き戸が見えた。

 一方の左側は二メートルほどいった場所に分厚く長い暖簾のれんが床まで垂れ下がっており、先は見通せない。

 しかし、その隙間からはわずかに光が漏れていた。

 松岡は喉を鳴らして唾を飲み込むと、足を忍ばせて左側へと進み、暖簾を右手で除けて潜ろうとした。すると……。


「うっ……」


 松岡は思わず大きな声を発しそうになるも、必死にそれを飲み込んだ。

 なぜなら暖簾のすぐ後ろに、あのリカの娘が立っていたからだった。

 リカの娘は瞬きを繰り返しながら、じっと松岡を見つめている。

 廊下の先にはあがりかまちに囲まれた三和土たたきがあり、その向こう側には玄関の引き戸があった。

 引き戸の磨硝子からは、うっすらと太陽の光が差し込んでいる。

 しばらく見つめあう松岡とリカの娘。

 不意に彼女が言葉を発しようとした。

 松岡は慌ててしゃがみ、リカの娘の口元に左手を当てた。

「しーっ!! 静かに……お願いだから、静かに!」

 松岡は己の唇の前で右手の人差し指を立てて必死に言い聞かせる。

「頼むから君のパパにはナイショにして……お願い……お願いだから……」

 すると、リカの娘は、こくりと頷いた。

 松岡はゆっくりと彼女の口から左手を放す。

「今からおじさんが警察を呼んできてあげるから……ね? そうすれば、もうパパに痛い事をされなくて済むんだよ。だから、静かにして、ここでまっていてね?」

 リカの娘は無言で頷く。

 松岡は立ちあがり忍び足で玄関の方へと向かう。

 框の手前にあった棚の上のデジタル時計を見ると、時刻は六月二十日の十三時を回ったところだった。

 その棚の前を通り過ぎ、松岡は三和土へと降りた。

 そして玄関の戸に手を伸ばした、その瞬間だった。


「待てよ、糞野郎」


 突然、背後から聞こえた男の声。

 驚いて振り向くと、腹の辺りに衝撃と耐えがたい痛みを感じて、松岡は背を丸めた。

「あ……あ……」

 包丁が腹の中にめり込んでいる。

 その包丁の柄を握っているのは、あのリカの娘であった。

「な……な……何で?」

 松岡は玄関の戸を背中にして、ゆっくりと腰を落とした。

 包丁が引き抜かれる。

 鮮血が吹き出し、幼き少女の顔面を飛沫が濡らす。

「てめえよぉ、人の女に手をあげておいて、黙って帰ろうだなんて虫がよすぎだろうが。あ?」

 その声は、大人の男のものだった。

 松岡の目蓋が、まばたきを繰り返しながらゆっくりとさがってゆく。

 リカの娘は松岡の頬をぺしぺしと叩きながら、八歳児には似つかわしくない笑みを浮かべる。

「おい、寝るんじゃねえよ。こりゃあ、深くぶっ刺し過ぎたか?」

 下品な嘲笑ちょうしょうが轟く。

 そして、逆手に持ち直された包丁が虚ろな表情の松岡の胸に突き立てられた。




 脇腹の痛みを堪えて起きあがり地下室の階段をあがると、玄関の方から物音がした。

 暖簾を潜り抜けてみると、三和土に横たわった松岡芳光の腹の上に腰をおろした小さな少女が、ゲタゲタと笑いながら包丁を振りおろしている。

 その光景を見た西嶋里佳は短い悲鳴をあげて、口元を手で覆った。

 すると、少女は立ちあがり、西嶋の方を振り向く。

 顔も身体も返り血にまみれて真っ赤になっていた。

「あひゃひゃひゃ……玩具、もう壊れちまったぁ……」

 これまで、玩具として監禁された人間は、もっと時間をかけてゆっくりとなぶり殺されていた。

 玩具が死んだあとは西嶋が後片づけをして、またの中から新しい玩具を連れてくる。

 その周期がどんどんと短くなっていっているのには気がついていたが、たったの一日も持たなかったのは初めての事だった。

 少女は三和土から、唖然とする西嶋の元までやってくると事もなげに言った。

「シャワー浴びるから、お前、あのゴミ、片付けておけよ?」

 その言葉を発した少女は、西嶋の娘である麻鈴の姿をしてはいた。

 しかし、西嶋の左眼には視えていた。娘ではない別人が娘の身体を借りて言葉を発している事を……。

「……それから、今日も確か、取ってんだよな? そいつ、さらってこいや」

 確かに今日もSNSで知り合った別な男と阿久間SAで待ち合わせしている。

 しかし、鼻を怪我したこんな顔でいっても、上手く誘えるとは思えない。

 顔を見た瞬間に、男が回れ右する可能性もある。

 そもそも、さっき、松岡から食らった膝蹴りのお陰で、肋骨が息苦しいほど痛い。

 たぶん、折れているかもしれない。

 だから、仕事・・は休ませて欲しい……西嶋は涙ながらにそう懇願こんがんした。

 しかし……。

「ウルセエ、俺に逆らうんじゃあねえよッ!!」

 そう言って、すねを蹴られた。

「DV男にやられたって言って、同情を誘えばいいだろ? お前が俺にやったみてえによ」

 脛を押さえてうずくまる西嶋の背中に嘲りを浴びせかけて、西嶋麻鈴の・・・・・姿をした・・・・宇野哲平は・・・・・、暖簾を潜り抜け家の奥へと消えた。

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