【05】爪痕


 の存在は長い間、何もない木々の間にたたずむだけだった。

 しかし、その日、唐突に現れた二人の少女から漂う微かな香りを感じて動き出す。

 それは二人がこれまでに踏みいってきた、人ならざるモノたちの領域の残り香であった。




 食事を終えた桜井梨沙と茅野循は、倒壊した建物の周りを探索する事にした。

 薄暗く山鳥の鳴き声すら聞こえない。

 そんな陰鬱いんうつで肌寒い静寂せいじゃくの中、手分けをして一帯をぶらつく。

 すると、瓦礫から少し離れた場所にあった木の幹の前で茅野は不意に足を止めた。

「梨沙さん!」

「何?」

 桜井が返事を返す。

「こっちに大きな爪痕のような溝があるわ」

 茅野の目線の先には、幹に深々と刻まれた四条の傷跡があった。

「こっちにもあるよ。熊かな?」

 そして、桜井の目の前に倒れている石灯籠いしどうろうにも似たような傷跡が見られる。

 茅野はその傷跡をじっと見つめながら言った。

「月輪熊にしては大きすぎるわ……そもそも、本当に熊の爪痕なのかしら?」

「ねえ、循!」

 そこで桜井が大声で茅野を呼んだ。

「何かしら!?」

 茅野が桜井の方へ向かう。

「見てよ」

 桜井は近くに転がっていた木製の円柱を指差す。

「これ、ひょっとして刃物の傷じゃあないかなあ……」

 茅野がその円柱を覗き込む。

 そこには確かに柱を袈裟懸けさがけに斬りつけたような傷跡があった。

「本当ね。確かに刃物の傷っぽいけれど」

「ここで、戦いでもあったのかな……?」

 桜井が腕を組み眉間にしわを寄せる。


 ……それから二人は探索を続け、木々の幹や瓦礫などから爪痕や刃物らしき傷痕をいくつか発見する。

 しかし、他には特におかしな事は何も起こらなかった――。




 西嶋里佳は地下室へと向う。

 あの部屋は嫌いだった。なぜなら、視えるからだ・・・・・・

 宇野に殺された両親と、玩具となった者たちの姿が……。

 部屋の中で、じっと佇んで虚ろな眼差しを虚空にさ迷わせる死者たち……。

 西嶋が彼らの姿を認識できるようになったのは、宇野に突き飛ばされて馬乗りにされ、何度も何度も殴られたあとだった。

 それ以来、視界の左半分が霧に包まれたように白くなって見えなくなり、その白い部分に死者の姿が映るようになった。

 通常の視界に映画のスクリーンが重なるように見えている状態と言い表せばよいのだろうか。

 それが自らの狂気の産物ではないと、西嶋が素直に受け入れられたのは、あの事が・・・・あったからだった・・・・・・・・

 ともあれ、彼女はあの部屋にはいきたくなかった。しかし、いかなくてはならない。

 西嶋は狭く暗い階段を降りて地下室の前の扉に立った。

 すると松岡は扉ののぞき窓の向こうで床に腰を落とし、項垂れていた。

 そして、奥の壁際には、これまであの男の犠牲となった者たちが、ずらりと並んでいた。

 別段、西嶋の事を怨んでいる訳でもないような、洞穴のような瞳でじっと薄暗い虚空を眺めている。

 彼らは何をしてくる訳でもない。いつも、そこにいるだけだ。

 それでも西嶋の胸の奥には、堪えようのない罪悪感が込みあげてくる。

「ごめんなさい……」

 小さく呟いて目線を逸らした。

 すると、その声に反応したのか、松岡が勢いよく立ちあがる。

 憤怒の形相を浮かべて立ちあがり、扉に詰め寄ってきた。




 覗き窓の向こうにはリカの顔があった。なぜか鼻の頭にガーゼを張りつけていた。

 松岡は必死に訴える。

「おい! お願いだ……ここから、早く出してくれ……ここから出してくれたら、百万払う。警察にも言わない。忘れてやる。な?」

 しかし、その提案にリカは答えようとしない。

 マネキンのような無表情で淡々と口を開く。

「暗証番号を教えてください」

「おい! 話を聞いているのか!?」

 松岡が、どんどんと扉板を叩いた。

 しかし、リカは気にする素振りも見せずに言葉を紡ぐ。

「早くキャッシュカードとクレジットカードの暗証番号を教えて……」

「なあ、じゃあ、二百万払うよ……お願いだよ。ここから出してくれよぉ……」

 必死に懇願こんがんする松岡。リカは悲しげに表情を曇らせる。

「駄目です。そんな事より早く暗証番号をお願いします。でないと、あの人・・・に痛い目にあわされます」

 松岡は“あの人”と聞いて思い出す。

 ついさっき、部屋の天井――一階から聞こえてきた男の怒鳴り声を。恐らくリカの旦那だろう。

「あなたも、私も、娘も酷い目にあわされる……だから、お願いします」

 そこでリカはくしゃりと顔を歪ませ、涙を流し始めた。

「君は、脅されているんだな? だったら警察に行こう。君は脅されていたって証言してあげるから。その代わり、俺が君と浮気しようとしてた事は言わないで欲しい。どうだ? 警察に行こう……ね?」

「……無理。無理よ」

 リカは顔を両手で覆い、すすり泣きながら首を振った。

「何が無理なもんか!」

 松岡は覗き窓に顔を押しつけて必死に訴える。

「……なあ、頼むよ。全部、君の旦那が悪いんだろ? だったら、それで全部、上手くいくよ」

「無理よ。だって、警察があの人・・・・・・をどうにかできる・・・・・・・・訳がないもの・・・・・・……」

「何でだよ? 君はいったい何をそんなに恐れて……」

 松岡はその言葉を最後まで述べる事ができなかった。

 何故ならリカが、覗き窓から防犯スプレーを吹きつけてきたからだ。

「うわっ!! ちくしょ……ごほっ、ごほっ……」

 咄嗟に飛び退きつつ腕を盾に目元を覆った松岡であったが、少し吸い込んでしまい咳とくしゃみが止まらない。

「ごほっ……くそが……」

 うずくまり悪態を吐く。息が詰まり涙が溢れて止まらなかったが、直接、目に薬品が入る事は避けられたようだった。

 何とか目を開いていられる。これならばいける。

 なるべく息を整えながら、チャンスを窺っていると扉の開く音がした。

 リカが近づいてくる。

「……ごめんなさい。本当にごめんなさい……あなたから、暗証番号を聞き出さないと、私と娘が酷い目にあうの……だから、ごめんなさい」

 ぐずぐずに泣きながら、リカは右手で催涙スプレーを構えた。

「お願いだから、暗証番号を教えてください……」

 すると、その瞬間だった。

「この糞アマが!」

 松岡が勢いよく立ちあがった。驚いたリカがたたらを踏んでスプレーを噴霧ふんむしようとした。

 しかし、右手首を掴まれてしまう。

 催涙スプレーの霧があらぬ方向へと飛んだ。

 次にリカは腹へ膝蹴りをもらう。

「ああ……あ……あ」

 悶絶し、スプレー缶を取り落としてしゃがみ込んだ。

 松岡は咄嗟にそのスプレー缶を拾い、リカの顔面目掛けて噴射した。

「ああああっ!!」

 彼女は顔をかきむしりながら、のたうち回る。

「はあ……はあ……畜生……ごほっ」

 松岡はスプレー缶を持ったまま、地下室の出口へと向かった。

 しかし、彼は気がついていなかった。

 その一部始終を天井の覗き穴から見ていた者がいた事に……。

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